なぜ潰れた? 名車と振り返る「消滅した自動車メーカー」 32選 前編
オースチン・ヒーレー:3000(1959年)
1959年にデビューしたオースチン・ヒーレー3000は、3.0Lエンジンとフロントディスクブレーキを特徴としていた。欧州のラリー競技で活躍したが、販売は北米に支えられていた。当時の英国スポーツカーの中でも特に優れた1台で、1960年代を通じて改良が続けられた。
では、オースチン・ヒーレーはどうなったのか?
オースチンとヒーレーの20年にわたる提携は、1972年に終了した。その後、オースチンの後継会社であるローバーをBMWが所有するなど、復活の話はあったが、結局のところ何も実現していない。社名自体は現在、中国の上海汽車(SAIC)が所有している。
アウトビアンキ:A112アバルト(1971年)
ホットハッチの先駆者としてはフォルクスワーゲンの名がよく挙がるが、なぜかアウトビアンキのA112アバルトは見落とされがちだ。確かにA112は小さいから、視界に入らないのも無理はないかもしれないが……。 A112アバルトは1971年9月(まだゴルフの名を誰も知らなかった頃)、A112の高性能バージョンとして登場した。初期モデルは最高出力58psの4気筒エンジンを搭載しているが、後に70psまでパワーアップした。 ■では、アウトビアンキはどうなったのか? アウトビアンキは自転車メーカーのビアンキ、ピレリ、フィアットの合弁会社である。1968年にフィアットが支配権を握り、その後、ランチアに事業を統合した。アウトビアンキという名称は1995年に姿を消している。
アウトウニオン:1000 SP(1957年)
外観上、アウトウニオン1000 SPと、標準的な1000との関連性を示すものはほとんどない。しかし、2ストローク3気筒エンジンは1000と共通であった。シュトゥットガルトに本拠を置くコーチビルダー、バウアが1958年から1965年の間に1000 SPを約5000台生産した。また、1961年からは1000 SPベースのコンバーチブルを1640台ほど生産している。
では、アウトウニオンはどうなったのか?
アウトウニオンは1969年にNSUと合併し、まもなく両社ともフォルクスワーゲンに吸収された。この合併によって誕生したのが現在のアウディだ。現在、アウトウニオンとNSUは休眠状態にあるが、アウディはNSUの拠点であったネッカーズルムでA6などの自動車を生産しており、フォルクスワーゲンもアウトウニオンのルーツの一部(トラバント)があるツヴィッカウで自動車を生産している。