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”アカ”のレッテルが貼られた瞬間から…粉々に崩れ落ちた一家7人の人生

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ハンギョレ新聞

[朝鮮戦争70年]虐殺、消えることのない記憶 

粉々に崩れ落ちたパク・オンソプさんの家族  長兄は保導連盟の召集で虐殺  米軍に集団で性的暴行を受けた後  次姉は自ら命絶つ  引き続く悲劇に母親は心の病に  パク・オンソプさん、行く先々で警察に追われ  「連座制」の足かせ断ち切るため  「生まれて初めて就職したのが道議員…  当選したらそれ以上監視しなかった」  長兄は保導連盟(国民保導連盟)で虐殺された。次兄は越北を試みて投獄された。次姉は米軍に集団性暴行を受けた後、自ら命を絶った。義兄はパルチザン活動で刑務所に収監された。父親は子どもたちの左翼活動に関与しとして、警察に拷問を受けた。母親は火病(うつ病の一種)で亡くなった。忠清北道槐山(クェサン)に住むパク・オンソプさん(82)が経験した朝鮮戦争だ。忠清北道議員を務めたパクさんは、大韓民国を誇りに思っていると語った。  パクさんの父親、パク・ドンスさんは清川面松面里(チョンチョンミョン・ソンミョンリ)で田んぼ20斗落(1万3200平方メートル)とタバコ畑13斗落(853平方メートル)を持った富農だった。使用人も何人かいた。長兄は一家の誇りだった。彼は1942年に清州農業学校を出て、釜山で畜産専門学校を卒業した後、忠清北道庁の畜産科で公務員として働いていた。しかし、長兄は左右の対立が激しかった1940年代後半、公務員を辞め、義兄と共にパルチザン活動を始めた。一家の悲劇の始まりだった。  1948年、次兄が越北を試みた容疑で逮捕され、西大門刑務所に収監された。当時パク・オンソプさんは10歳だった。翌年の1949年、長兄が警察に捕まった。槐山警察署は1949年10月、「パルチザンと内通していた」としてパクさんの二人の姉を連行し、拷問した。ひどい殴打と拷問の末、姉たちは釈放されたが、父親は清州刑務所に収監され、半年後の1950年4月になってやっと釈放された。  警察に逮捕されてから転向した長兄は、国民保導連盟に加入した。左翼活動をした人々を大韓民国の一員にするとして、李承晩(イ・スンマン)政府が主導して立ち上げた全国的な官辺団体だった。6月25日、朝鮮戦争が起きた。軍と警察は保導連盟員の予備検束を実施した。人民軍に同調する恐れがあるという理由だった。長兄は清州の保導連盟員の招集で家を出てから、帰ってこなかった。  長兄が7月10日、清原郡(現清州市)南一面高恩里(ナミルミョン・コウンリ)のプントゴル(谷間)で処刑されたという話を聞いたのは、それからかなり時が経ってからだった。プントゴルは朝鮮戦争当時、忠清北道地域最大の民間人虐殺地だった。「朝鮮戦争前後の民間人虐殺真相究明・忠清北道対策委員会」のパク・マンスン元運営委員長は、「プントゴル民間人虐殺の目撃者と加害者の調査の際、パク・ドンスさんの長男が被害者であることが確認された。未申告者として報告書に記載された」と述べた。  1950年7月中旬、忠清北道槐山郡を占領した北朝鮮人民軍は、行政組織である人民委員会と内務署(警察署)を設置した。報復を恐れた町の長老たちが、父親のパクさんに人民委員長を引き受けてほしいと頼んだ。父親は松面里人民委員長に、長姉は女盟(女性同盟)委員長にそれぞれ任命された。パクさん親子は北朝鮮軍の指示で愛国米を集め、農作物の実態調査などを遂行した。父親は義勇軍の募集を求める人民軍に「村に人手がなくて大変だ」と言い、村の青年たちを守ったという。  仁川上陸作戦の成功後、韓国軍と警察は1950年9月末、槐山郡を取り戻した。父親は愛国米80俵あまりを隠し、北朝鮮人民軍が退却した後、町の近くに駐留している韓国軍と村の住民に配った。そのおかげで、パクさん親子は修復後、賦役の容疑で再び苦しむことはなかった。  去ったかのように思われた悲劇は、やがて彼らに再び訪れた。12月、家に押し入った米軍兵士が、次姉を「調べることがある」として連れて行った。姉は当時、18歳だった。父親のパクさんは「夜中に何の調査をするのか」と彼らの前に立ちはだかった。軍人たちは銃と腕力でパクさんを制圧し、泣きじゃくって抵抗する姉を連れて行った。米軍から集団で性的暴行を受けた次姉は、凄惨な姿で戻ってきた。母親は娘の姿を見て泣き崩れた。父親は自殺しないよう姉を見張るようにと言った。当時12歳だったパク・オンソプさんは、「次姉以外にも、梨坪里(イピョンリ)、松亭里(ソンジョンリ)など隣の村でも多くの女性が連れ去られ、(性的暴行を)受けた。一部の未婚女性は近くの山奥に身を隠した」と話した。  1951年、新年から母親が原因不明の病に襲われた。2人の息子(次男はその後生還)と婿が行方不明になり、娘が米軍に性的暴行を受けたうえ、アカ一家と蔑視されることに耐え切れず、精神を病んだのだ。1年間病に苦しんでいた母親は、同年12月4日に死亡した。パク・オンソプさんは「亡くなる前の1カ月間、気を失い、全身がむくんで亡くなった。十分な治療も受けられず、苦労ばかりだった。火病だった」と語りながらため息をついた。  1952年、北朝鮮人民軍と一緒に活動した義兄が妻の実家に立ち寄ったことが見つかり、警察に逮捕された。彼は裁判所で無期懲役を言い渡された後、大邱刑務所に収監された。米軍に性的暴行を受けた次姉は、隣村の青年と急いで結婚したが、1959年、子ども2人を残してついに自ら命を絶った。  パクさんが松面小学校を卒業すると、父親は「これ以上学んでも就ける仕事がないだろう」として農作業を手伝わせた。パクさんは父親のタバコ栽培を手伝っていたが、「アカ一家の息子」と後ろ指を差されるのに耐えきれず、17歳の時に故郷を離れ、忠州の工場で働き始めた。しかし、数日後に警察に知られ、工場から追い出された。薬局や飲食店などで働いた時も警察に追われ、仕事をやめなければならなかった。いわゆる連座制だった。船乗りになろうと釜山にも行ったが、身元照会に引っ掛かり、乗船できなかった。パクさんは「よそのうちの兄たちは弟の面倒を見てくれるのに、うちの兄たちは私の前に立ちはだかるばかりだった。兄ではなく、敵だと思っていた。悔しくてしょっちゅう泣いた」と話した。  1974年、父親が亡くなってから、進むべき道を失ったパクさんは、連座制の足かせを断ち切ると決心した。「自分の境遇が悔しくて、悪事を働こうかとも思った。ずっと苦しめらるうちに負けてたまるかという闘志が沸々と沸いて、国会議員を目指した」と語った。タバコ農業を営みながら、村の事を一手に引き受けた。機会がある度に、与野党を問わず、地域政界の門を叩いた。1975年に槐山郡行政諮問委員を務め、1981年2月には「体育館選挙」の選挙人団にも選ばれ、全斗煥(チョン・ドゥファン)氏を大統領に選んだ。1988年に民主平和統一諮問委員に委嘱され、1995年には民主党忠清北道党副委員長に続き、第5代忠清北道議員に当選した。「当選したら、保安当局もそれ以上私を監視しなくなった。アカのレッテルも消えた。生まれて初めて就職したのが道議員だった」と振り返った。現在、パクさんは華陽書院など地域文化財の復元に力を入れている。  「朝鮮戦争前後の民間人虐殺真相究明・忠清北道対策委員会」は、長兄を槐山郡被害者と確認したが、パクさんは真実・和解委員会に真相究明を申請しなかった。「70年間、アカだと後ろ指を指されても、黙って耐えるしかなかった。昔のことを思い出すだけでも辛い」と語った彼は、朝鮮戦争70周年の悔恨を訪ねる質問に、しばらく考え込んでから、このように答えた。「戦争で多くの罪のない人たちが被害を受け、犠牲になった。国家レベルで犠牲者遺族の無念を完全に晴らしてほしい。列強の駆け引きで南北に分かれ、結局同族同士で戦い、今も互いに銃を向けている。民族が一つになってともに許し合い、南北統一が一日も早く実現することを望む」 槐山/キム・ヨンドン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)

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