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自己最多55盗塁も盗塁王の経験なし。落合と首位打者も争った日本ハムが誇る無冠のスピードキング/プロ野球20世紀・不屈の物語【1977~91年】

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週刊ベースボールONLINE

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 島田誠 “不運”もたびたび……ハムのリードオフマン/プロ野球1980年代の名選手

プロ入り前からアクシデントの連続

「盗塁は全部サインでした。でも、ノーサインで走らせてもらっていたら毎年80盗塁はできたと思いますよ」  こう自身の現役時代を振り返るのは、まだ東京に本拠地があった時代の日本ハムをリードオフマンとして引っ張った島田誠だ。もちろん自慢は俊足だったが、 「(サインの盗塁は)行けそうなときも走れなかったし、カウント的に難しいときでもサインが出たら走らなきゃならない。そういう難しさはありましたね」  そんな苦悩があったことも吐露する。それでも3年目の1979年には自己最多の55盗塁。これが21世紀の数字だとしたら間違いなく盗塁王だ。プロ1年目から2ケタ盗塁は11年も続いたが、当時のパ・リーグは阪急の福本豊が健在、やがて近鉄の大石大二郎が頭角を現して、島田は最後まで盗塁王のタイトルはなかった。だが、こうした悲運はプロで始まったことではない。逆風というより、まるで運命の女神を敵に回したかのように、少年時代からアクシデントが多かった。  福岡県の出身。まだ炭鉱も残っていた時代、4歳のときに滑車のロープに右腕を巻き込まれたことで左利きになった。直方学園高では外野手と投手を兼ねていて、南海から投手で誘われたが、 「正直、ピッチャーがイヤでイヤで仕方なかった。プロには打者で行きたかったんで、お断りしました」(島田)  だが、この結論が吉と出たか凶と出たかは微妙なところだ。早大から声をかけられながらも、高校の監督から「どうせ4年で卒業できん」と言われて断念、東京にある大学のセレクションも複数の合格をもらっていたが、「甲子園に行ってないから授業料の免除が無理」と言われて家計も考え断念。地元の九産大へ進んだが、1年生でレギュラーを確保したことで上級生から嫌がらせを受ける。それでも2年間はプレーを続けたが、3年生の春に中退。5月になっていたことで社会人の募集も少なく、どうにか愛知県の丹羽鉦電機に就職できたが、 「練習は仕事が終わってからの2時間くらい。しかも僕の仕事は碍子(電線に使う絶縁器具)を作る作業で、1日1000個がノルマ。集中しなければならないし、扱うのも重い。ヒザの曲げ伸ばしもあって、かなりきついんですよ。でも僕は、それをトレーニングと考えた。1000回もスクワットできるんだからラッキーだって。ニコニコ笑いながらやっていたら、仕事がきつくて島田がおかしくなったと言われました(笑)。ただ、野球部を続けていたら会社がつぶれる、となって解散。どうしても野球を続けたい人のために監督が福岡に、あけぼの通商という会社を作った。味噌漬けとかの行商で、月給は3000円でした(笑)」(島田)

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