「関ヶ原合戦」通説とは全く異なる研究とは? 千田嘉博×平山優が最新資料で解き明かす
それに対して千田さんは、「これまで武田方は新しい技術に背を向けて、伝統の騎馬の力で勝てると思っていたが、近代型の戦い方に敗れたなどといわれてきましたが、その見方そのものが違うわけですね」と長篠合戦の新たな解釈に納得した様子であった。 お二人の話しはこれまでの概念を大きく変える新たな情報や解釈が続々と出て、長篠合戦の見え方が大きく変わる展開になった。 ■ 関ヶ原合戦は通説とは全く異なる研究が進んでいる 続いて関ヶ原合戦に関して「合戦の当日は霧の中、福島正則軍と宇喜多秀家軍の戦闘が始まり、午前中は西軍が優勢に進んでいたが、昼過ぎに小早川秀秋が裏切り大谷吉継軍を襲い、これにつられて赤座直保、脇坂安治らも裏切り西軍が敗北したとされてきましたが、最近、その話はすべてダメということになりました」と衝撃の発言。さらに小早川秀秋の衝撃的な行動も明かした。 千田さんは航空レーザ測量を使った新しい手法で得られた関ヶ原合戦の新たな知見を明かしてくれた。 「毛利の軍勢の大群が駐屯していたとされてきた南宮山の山頂には小さな砦がふたつしかありません。だから見張りはいたかもしれませんが、本体はどこにいたかを考え直さなければなりません」と通説との違いを説明した。 3つめのテーマの「江戸城と城下の整備」については、岡崎城などで見られる馬出しを重ねていく東国の城づくりと西の城づくりの特徴である外枡形を組み合わせて、家康の江戸城は西と東が融合した城であると千田さんは解説した。 そして江戸の城下町は大名の屋敷を配置し、家康はまちづくりに関して通りに面して建物をつくる古代からの都を意識していたことと、景観の面でも費用は町人持ちで日本橋には江戸城と同じ三階建ての白漆喰(しろしっくい)の町家をつくらせていた。街と城を一体化したようなデザインにして首都としてふさわしい街を意識していたとも話した。 最後に、江戸城天守再現論争があるが、それに対しての二人の見解はどうなのか……。 関ヶ原合戦での小早川秀秋の衝撃の行動をはじめ、『戦国時代を変えた合戦と城』を手に取ると研究の最前線を知ることができ、新たな歴史の今を感じることができる。 (文・鮎川哲也)
千田嘉博,平山優