「関ヶ原合戦」通説とは全く異なる研究とは? 千田嘉博×平山優が最新資料で解き明かす
日本の城郭考古学の第一人者として研究をリードしてきた千田嘉博さん。大河ドラマ「真田丸」「どうする家康」などの歴史考証を担当した歴史学者の平山優さん。その二人が24時間以上に渡って激論を戦わせた書『戦国時代を変えた合戦と城』(朝日新聞出版刊)の延長戦ともいえるトークバトルが、11月10日(日)東京・神保町の出版クラブホールで開催された。 当日は多くの人が開場時間の前から列をつくり、開場時間を早めるほどであった。開演前には千田さんが早く到着した観客と記念撮影をしたり、フリートークをしたりと、和やかな雰囲気に包まれた。 この日は「長篠合戦」「関ヶ原合戦」そして「江戸城とその城下の整備」の3つをテーマに激論が繰り広げられた。 長篠合戦に関して平山さんは「武田方は奥三河の山家三方衆を味方につけていたので、ここから南下する作戦でした。しかし、信玄が亡くなり武田方が立ち止まる隙に家康は長篠城を武田方から取り返しました。その結果、武田が南下する出口が塞がれてしまい、武田方は長篠城をターゲットにして長篠合戦が始まったと通説ではされていますが、それは違います」と断言した。 続けて「武田の本当の攻撃目標は岡崎城だったのです。岡崎城で武田方に内通していた中心人物が大岡弥四郎です。武田方としては足助城を攻め、次に大岡弥四郎の手引で岡崎城を攻め落とす作戦だったのですが、山田八蔵が家康に密告してその作戦は失敗したのです」。 さらに平山さんは長篠の合戦へ至る経緯や合戦の実態などの真相を次々と解き明かしていった。 千田さんは発掘調査をした成果として土塁の一部が発掘でわかり、長篠城はとても丁寧な版築がなされていたと解説した。 「長篠城には武田がつくった馬出しがあったこともわかりました。長篠城は後に徳川方の城になりましたので、徳川は武田の城づくりをつぶさに見て、良いところを取り入れるなど、その後の徳川の城づくりに大きな影響を与えたと考えられます」と解説した。 また平山さんは「長篠合戦で武田軍の陣地付近で大量の鉄砲玉が出て、鉄砲玉の鉛の成分分析の結果、日本産もありましたが、中国、朝鮮、そしてもう一つがタイ産であることが今世紀になって突き止められました」と重大な発表をした。つまり鉛は南蛮貿易によってもたらされたことが判明したのだ。 鉛は鉄砲の玉に使われるが同時に銀の精錬にも欠かせず、当時は鉛の需要が増え、輸入に頼ったことがわかった。武田方は鉛がなく、青銅製の玉しか使えなかった。鉄炮玉そのものも少なく武田の敗戦は鉄砲玉不足もあったと平山さんは明かした。