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供出される釣鐘運ぶ 「戦争は小さな幸せ奪う」 戦後75年―語り継ぐ記憶/兵庫・丹波篠山市

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丹波新聞

 終戦から75年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は松本一等(かずしな)さん(85)=兵庫県丹波篠山市住山。

 同市住山で農業を営んでいた父と母、3つ違いの姉と住んでいた。父、等太郎さんは明治12年(1879)生まれ。日露戦争(1904―05年)で戦地へ赴いたが、「戦争に勝ったとは聞いたが、どこに赴いたかは聞いたことはない」と話す。  太平洋戦争開戦時、等太郎さんは62歳。戦地に赴くことはなく、家族4人で暮らしていた。ある時、高仙寺(同市南矢代)の釣鐘が載せられた荷車を大勢で引っ張った。「それが私の戦争の始まりだった」と一等さんは言う。古市国民学校(現・古市小学校)の児童もたくさん参加した。  この釣鐘は、高仙寺で今でも現役で使われている。釣鐘をよく見ると、5つの穴が開いている。釣鐘の説明板によると、太平洋戦争時、武器の材料となる金属が不足していたため、金属製品が国に供出され、この釣鐘も対象になった。住職や檀家の間でてっきり武器になったのだろうと思われていたが、戦後しばらくして釣鐘が返ってきた。鐘の内部に「兵庫県多紀郡古市村高仙寺」と書かれていて、それを手掛かりに返されてきたという。5つの穴は材質を調べるために開けられたのではないかとされている。一等さんは「今でも釣鐘を見ると戦争のことを思い出す。いつまでも平和の音を鳴らし続けてほしい」と話す。  自宅近くの八幡神社で、出征する村の若者を何人も見送った。子どもたちも参加した。境内では、大人たちが米兵を想定した竹やりの訓練をしていた。子どもたちも見ていた。「子ども心にそんなことで戦争に勝てるのかなあと思っていた」。また国防婦人会が消火訓練のバケツリレーをしていたことも脳裏に残っているという。  学校の裏山に防空壕があった。自宅近くには等太郎さんがつるはしで作った小さな防空壕もあった。空襲警報が鳴ると、「母が通帳と先祖の位牌を胸に入れて防空壕に入った。飛行機が通る音がとても怖かった」。  終戦の8月15日、一等さんは友人たちと川遊びをしていた。その帰り、村に3、4台しかなかったラジオから玉音放送が聞こえてきた。「何を言っているのかは分からなかったが、とにかく戦争が終わったことは分かり、ほっとした」という。  両親は農家をしていたが、戦後、食べる米がなかった。全て国に供出され、古市駅近くにあった配給所に行った。麦ばかりのごはんに大根の葉、野山で取ってきたリョウブの葉でかさを増した。  戦後、学校の運動場にはサツマイモが植えられた。学校だけでなく、近くの当野地区まで行って開墾し、サツマイモを植えた。学校近くの山で炭焼きが行われ、「炭窯まで木を運ぶ役目をした。木はとても重たかった」と振り返る。  戦時中、等太郎さんの弟の子ども、つまり一等さんの従兄が姫路連隊に入隊、シベリアで病死した。出征の前日、一等さんは父に連れられ、古市の従兄宅で泊まった。出征時には古市駅まで見送りに行った。「なぜ、父がわたしを従兄に会わせたかったのか。従兄と何を話したか覚えていないが、顔は覚えている」という。  2010年、突然、従兄の遺骨が古市に帰ってきた。市内の斎場で焼き直され、法要が営まれた。「(亡くなった)両親のもとへやっと行けたのだと思ったら、ほっとして涙がなぜか止まらなかった」  妻の米子さん(82)は兄の性二さんを戦争で亡くした。遺骨箱には遺骨は入っておらず、手紙しか入ってなかった。22年前に亡くなるまで母の光子さんは毎年、お盆になると、仏壇下に置いてあった息子の手紙を読んだ。米子さんは「毎年、泣きながら手紙を読んでいた。泣くんだったら、手紙を読まなくていいのに」と思っていたという。  一等さんは「今は各国が競うように軍備を増強している。戦争は絶対にしてはならない。人の小さな幸せを奪い、人類を破滅に向かわせるだけだ」と力強く語る。

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