【半田銀山再興150年】誇れる歴史遺産に(11月27日)
日本三大鉱山に数えられた桑折町の半田銀山が、実業家の五代友厚に再興されて150年の節目を迎えた。歴史遺産としての魅力を改めて確認し、次代に価値を語り継ぐ契機としたい。 半田銀山は佐渡金山(新潟)、生野銀山(兵庫)と並び、国内屈指の鉱山として栄えた。幕末の閉山を経て、薩摩藩出身の五代が1874(明治7)年、鉱石を運ぶトロッコ列車や製錬などの近代技術を取り入れた経営に乗り出した。明治天皇が2年後に行幸しており、当時の政府が半田銀山をいかに重視していたかがうかがえる。 五代が地元住民と交わした締約書(公害防止協定)の存在が近年、注目を集めている。銀山操業を前に「排水が稲作に害を及ぼすので対策を講じてほしい」との申し入れが地元農民からあり、五代は排水浄化の沈殿池を造ったり、稲作期間に工場を休業したりした。その上で1876年に締約書を結んだ。公害防止協定の先駆けと言える内容だと、文学博士で先月亡くなった八木孝昌氏が説いている。
桑折町内で10日に開かれた半田銀山シンポジウムでは、八木氏の代理で登壇した五代友厚顕彰会の上村修三氏が「締約書は画期的だったが、モデルケースとして普遍化されなかった」と惜しんでいた。1890年に足尾銅山鉱毒事件が発生した。締約書が社会的関心を集めていれば、足尾事件は防げたかもしれない。締約書は旧伊達郡役所に保存されている。時代を先取りした文書の価値を広く共有し、後世に引き継ぐべきだ。 町内にはトロッコ列車の橋脚跡や坑口、女郎橋、坑夫の供養塔、明治天皇の行幸記念碑などが残る。シンポジウムでは、全国からの参加者がスタディーツアーとして鉱山跡を巡った。ただ、観光ルートとしては確立されておらず、今後、案内表示などの一層の充実も必要だろう。 一時は日本一の銀産出量を誇った。近代日本の発展を支えたが、資源の枯渇で戦後の1950(昭和25)年に休山し、1976年に閉山した。佐渡金山は今夏、世界遺産に登録された。半田銀山は休山の時期が早く全国的な知名度は低い。鉱山史で色あせない輝きを放つには、官民で歴史的意義を発信する取り組みが欠かせない。(浦山文夫)