「民主主義はまだ不完全」―GLAY・TAKUROさん
「声なき声」「小さな声」も貴重な意見として無視することなく進めてきた
――GLAY25周年のテーマに「DEMOCRACY(民主主義)」という言葉を選んだ理由を教えてください。 TAKUROさん: バンドという一つの共同体が、僕が社会に出た時の「最小の社会」でした。そこには、メンバー一人一人が当たり前に、自分の考えを提示したりという自由があるべきだと思っています。もう一つ、「声なき声」「小さな声」も貴重な意見として無視することなく進めていくんだ、今までそうやってきたんだ、という主張でもあります。もちろんGLAYという共同体のシステム自体が完全ではないので、皆さんにとってどういう手本になるかというのは、まだわからないです。けれど、少なくとも音楽を作るというすごいエゴのぶつかり合いの中で、そこはとても大事にしてきた25年でした。そういった意味合いを込めて「DEMOCRACY」としました。
音楽でまた誰かの心を救える日が近づいている
――3月1日に、「エンターテイメントの逆襲」と題して、今年の活動内容を伝える動画を公開しました。この「エンターテイメントの逆襲」に込める思いはどのようなものですか? TAKUROさん: この「エンターテイメントの逆襲」という言葉を作ったのはHISASHIなんですが、長い付き合いなので、彼の言いたいことは本当に痛いほど分かります。ある意味、全エンターテインメントに関わる人たちが少しは思ったことでしょうけど、「そんなに不要不急ですかね?」という…。それこそ僕の大好きなバンド「怒髪天」の増子直純さんも、「確かに不要不急かもしんないけどよ」なんていう歌を作って、その思いを歌にしていましたけど。これは答えの出ないものだと分かっているけど、あえて僕は自分に問い続けているのが、死というものが医学的な死や肉体的な死だけが、死なのかなと…。生きがいを奪われた人、楽しみを奪われた人はどうなのか。確かに命というもののわかりやすさで言ったら、やっぱり医学的にこの世から消えるということが死というように定義付けられるのでしょうけど。人間のあるべき姿を考える時に、やっぱりそれに当てはまらない死というものもあって、もしエンターテインメントみたいなものがこの世からなくなる、ないしは減った時、そうでない形で人生を台無しにしたり、人生がうまくいかなくなったりということはないのか…。そういったことをずっと考えていますね。 「エンターテインメントが動かないことが誰かの命を救うんだ」と言われたら、僕には返せる言葉がないんです。だから「今は耐える時だよ」ということに、「そうだね、その通りだね」と思っている。でもどこかに何かこう「やること」―それは例えば、今はやりの配信ライブなのかもしれないし、リモートでの活動なのかもしれないけど、その中でなぜか釈然としない自分がいて。当然、コロナという未知のウイルスによる人類史上、未曽有の脅威ということは重々分かっているけれど。 誰もいない海辺にたたずんでいる時に思うのです。50m先にGLAYのファンの人が3人いて、そこでマスクもつけずに俺が歌うということがどれだけのことなのか。そこから30m近づいたらどうなんだろう。メンバーがもう1人いたらどうなんだろうと。今はなんでも、とりあえず「やめましょう」となっているけれども、それをやることによって救える命みたいなものも、もしかしたらあるんじゃないかと考えたり。けれど、やっぱりテレビをつけると「感染者の増加が問題になっています」「病床が足りなくなっています」というようなことを言っていて、「やっぱりエンターテインメントにはやることはないのか」と、そんなことが頭の中で、行ったり来たり繰り返しています。 それでも、耐えて耐えて「ようやくできる」という時には、力をためたミュージシャンたちが、音楽でまた誰かの心を救えるような、そんな日が近づいているって感じますけどね。