勝海舟はなぜ姉小路公知を頼ったのか?朝廷内の実力者を説得した勝の熱意と、引き起こされた朔平門外の変
(町田 明広:歴史学者) ■ 勝海舟が頼った姉小路公知 勝海舟の海軍構想の特色は、単に幕府だけのものとせず、朝廷と幕府双方による、挙国一致的な海軍の隆盛を目指すところにあった。そのためには、朝廷の中で、つまり廷臣の中で、その構想を支持してくれる有力者の存在が必要不可欠だったのだ。そこで、勝から白羽の矢が立てられたのが、姉小路公知(きんひさ/1840~1863)であった。 【写真】姉小路公知が暗殺された京都御所の朔平門 姉小路は、安政5年(1858)3月に通商条約の勅許阻止のため、「廷臣八十八卿列参事件」という抗議行動に参画して、御所に押し掛けた。文久2年(1862)8月の四奸二嬪排斥運動(即時攘夷派の廷臣により皇女・和宮の降嫁に尽力した公家らを幕府に通じる者として排斥した運動。四奸は久我建通、岩倉具視、千種有文、富小路敬直、二嬪は今城重子、堀河紀子のこと)、さらに10月の幕府に破約攘夷を迫る攘夷別勅使の派遣(姉小路は副使)といった即時攘夷運動の中核的存在であったのだ。 同年12月に国事御用掛が設置されると、姉小路はそれに任命され、翌3年(1863)2月には新設の国事参政にも任じられた。この間、国事の討議に加わり、同年5月に勃発した朔平門外の変で暗殺されるまで、議奏の三条実美に並ぶ即時攘夷派の中心人物として活躍していた。 ■ 姉小路の摂海巡検 文久3年4月21日、14代将軍徳川家茂は摂海巡見のため、京都から大坂に下った。即時攘夷派は、それに乗じて家茂が江戸に戻ってしまうことを恐れた。そのため、朝廷から姉小路公知に沿海警備の巡見を命じて、将軍の動静を監視させることになった。 姉小路は即時攘夷派の旗手であり、歯に衣着せぬ言動は、三条実美よりも勝っており、むしろ姉小路の方が頼りになる存在であった。姉小路は、身分的には三条よりもかなり下ではあるものの、それが幸いして、小回りが利く重宝さもあったのだ。三条実美と姉小路公知は、良きパートナーであり、双方がそれぞれの役割分担を理解し、即時攘夷派の行動を牽引していたと考えられる。 4月23日、家茂の後を追うようにして、姉小路は長州・紀州・肥後(熊本)等の諸藩の即時攘夷派の志士120余人を率いて大坂へ下った。それにしても、仰々しいほどの大人数に膨れ上がっていた。勝海舟との邂逅は目前に迫っていたのだ。 ところで、同日に家茂は勝の建言を容れて、直々に神戸海軍操練所の設置を指示している。勝は、幕府の最高権力者から海軍建設の許可を得たことになり、後は朝廷をその構想に、いかに巻き込むかにあった。