「マラドーナの死をもって、サッカーは一度死ぬ」アルゼンチンに“憑かれた”男の喪失と欠落
マラドーナの死をもって、サッカーは一度死ぬ
ソーシャルメディアを見ると、昨日の一報から今日まで、画面はマラドーナ一色で埋め尽くされている。彼の遺体を見送ろうと信じられない数の人々が集まっているのを見て、彼が所属したボカ(・ジュニオールズ)のサポーターと、そのライバルであるリーベル(・プレート)のサポーターが涙を流しながら抱き合っている映像を見て、アルゼンチンにあるすべてのスタジアムが“10”時に照らされている様子を見て、僕はなぜだか、涙が止まらないのだ。昔から、何か大きなことを終えるとプレッシャーから解放されて号泣する癖を持っている自分が、アルゼンチンから帰国するときに一滴も涙を流さなかったのは、それがまだ終わっていないのだということを示していたのかもしれない。帰国してちょうど1週間、彼の死をもって、僕のアルゼンチンでの戦いも終わりを告げた。 マラドーナの死と、自分のアルゼンチンでの日々を重ね、その終末が同時に訪れたことに対する涙は、もうしばらく止みそうにない。きっと、いま世界中で、僕と同じように自らの人生と彼の死を重ね合わせ、涙を流している人々がたくさんいることだろう。マラドーナは、誰かの人生そのものであり、その誰かが愛するサッカーそのものであった。彼はサッカーの美しさ、醜さ、汚さ、愛、友情、狂気、幸福、歓喜、情熱、それらすべてを体現する、世界でたった一人の人間だった。最初で最後の、サッカー選手だった。 マラドーナの死をもって、サッカーは一度死ぬ。 彼が何度も復活したように、サッカーもまたすぐによみがえって、人々に幸福と絶望を与え続けるだろう。僕は彼が死したとき、現地で友人たちと共に打ちひしがれることがかなわなかったことに対する寂しさを抱えて、前に進んでいきたいと思う。いつか「僕は日本人だけど、ディエゴの国、アルゼンチンでサッカーを学んだんだ」と胸を張れる日がくるまで、僕はこのスポーツを、一生愛していく。 ありがとう、ディエゴ。安らかに。 <了>
文=河内一馬