「マラドーナの死をもって、サッカーは一度死ぬ」アルゼンチンに“憑かれた”男の喪失と欠落
比類なきディエゴ・アルマンド・マラドーナ
ディエゴ・アルマンド・マラドーナ。いわずもがな、偉大なフットボール選手である。アルゼンチンという国から生まれた数多くの名選手たちは、誰一人として彼と比べられることを許されていない。「マラドーナ? メッシ?」という質問は、彼らが日本人の僕を見ると必ずしてくる質問だったけど、僕より上の世代の答えは「マラドーナ」一択で、「メッシ」と答える若者たちには、何かこう、“あの”マラドーナと比べられることに対する同情の意が込められているような、そんな気すらした。 この国にとってのマラドーナは、リオネル・メッシとも、フアン・ロマン・リケルメとも、誰とも、「まったくレベルが違う」というのが、3年間だけアルゼンチンに住んだ、一人の日本人が出した結論である。しかしなぜ、こんなにもこの国の人々は、この男のことを愛するのだろうか。初めてマラドーナをスタジアムで見ることができたとき、これまで感じたことのない「何か」を全身で受け止めた僕は、そのことを考えずにはいられなかった。人々は、選手に送る声援の、その3倍のエネルギーで「ディエゴ」の名前を叫ぶ。 彼の過去は知っている。ピッチで成し遂げたことも、ドラッグに溺れたことも、全部知っている。調べればわかることはすべて知っているけれど、僕はたぶん、彼のことを知る、つまり“見る”ことは、一生かなわないのだと思う。「日本人は、アルゼンチン人じゃない」。そんな当たり前のことを目の前に突きつけられるのは、いつだってマラドーナがきっかけで、サッカーというたった一つの「何か」に取りつかれて、一人遠くアルゼンチンに渡った日本人にとって、それはできれば顔を背けていたい事実だった。 「日本人の僕は、この人たちと同じサッカーの世界で、勝ちたいと口にしている」。そのことに対するえたいの知れない絶望と、滑稽さは、今後も消えることがないと思う。僕はそれと、ちゃんと向き合っていきたいと思っている。世の中には、言葉にしないほうが美しいものがあって、アルゼンチン人がマラドーナに抱いている「何か」もきっと、そのうちの一つなのだろうと思う。決して言葉にせず、ある人々だけがそれを“感じ”、心の奥深くで共有する。それこそがマラドーナなのだ。「神」という言葉は、それを補うために人々が用意した、最大の敬意である。