“無敗の男”渡部恒三氏の遺言 「なぜ野党は敗け続けるのか」を問うと……
元衆院副議長の渡部恒三氏が8月23日、老衰のため逝去した。享年88。2012年の政界引退後は会津若松の自宅で歯科医の妻と二人暮らし。隠居した「平成の黄門さま」に秘話を伺うべく、何度も通ったことがある。例の会津訛りで飄々と来し方を語り、懐に印籠を忍ばせておくサービス精神は健在だった。 【写真】この記事の写真を見る(3枚) 1969年の衆院選で旧福島二区から初当選し、連続14回当選を誇った「無敗の男」。厚生相、自治相、通産相などを歴任した。 早稲田大学雄弁会の先輩・竹下登氏に「国会議員は親の七光か、東大法学部卒の官僚でないとなれない」と言われ、氏同様、県議を経てから国政入りした。 その竹下氏が総理になると真っ先に呼び出された。「官房長官だ」と直感したが、「国対委員長をやってくれ」。右腕となる筆頭副委員長を誰にするか、安倍晋太郎幹事長に相談すると「小泉純一郎で」。意中の人ではなかったが、一期後輩の小泉氏が想定外の活躍で党内の異論を封じ、消費税法案を通過させた。見直した渡部氏は小泉氏に「君はいずれ総理になるぞ」とお世辞を言ったがその通りに。後年、「最初に『小泉君は総理になる』と言ったのは俺だ」とよく自慢した。一昨年、地元で開いた200人規模の誕生会に小泉氏を招いた。小泉氏も意気に感じて片道3時間をものともせずに駆け付けた。 一方、互いに「竹下派七奉行」と呼ばれ、自民党離党など政治行動を長らく共にした当選同期、小沢一郎氏との関係は、複雑だった。
「小沢君は思いどおりにならない俺を幹事長にしたくねえ」
95年末、新進党で小沢氏が党首になると、渡部氏は幹事長が確実視されたが、 「小沢君は自分の思いどおりにならない俺を幹事長にしたくねえ。棚上げ、棚上げで、副議長に推したんだ」 祭り上げられ、史上最長の2代7年も副議長を務めた。だが、09年に民主党政権ができると今度は衆院議長になれず、小沢氏主導で横路孝弘氏が指名された。 「マスコミも役所も、みんな俺が議長になると思ってた。俺はSPまで決めたんだ。ところが小沢君が一人、命がけで反対した」 「会津のケネディ」を自称したが、その実、我慢の多い政治家人生だった。 安倍一強と言われていた数年前、私がなぜ野党は敗け続けるのかを問うと、 「結局人間だ。先輩を大事にして意見を聞くということがない。鳩山(由紀夫)にしても菅(直人)にしても、野田(佳彦)や前原(誠司)もそう。自分が高い地位に立つと先輩が邪魔になる。俺はエリートだ、という感じになっちゃうんだ」 野党合流を巡りすったもんだを繰り返す後輩たちに、この声は届くだろうか。
常井 健一/週刊文春 2020年9月3日号