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2スト250ccの歴史的一台 ヤマハ「RZ250」誕生ヒストリー

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「2ストローク」を80年代に繋いだ立役者 RZ250

1973年10月。はるか中東の地で「第四次中東戦争」が勃発した。ペルシア湾岸の産油国は、すぐに原油価格の値上げを決定。第一次石油危機と呼ばれたこの頃、最終的に原油価格は約3倍にまでハネ上がり、世界中の景気に影響を及ぼすことになる。日本では「狂乱物価」という言葉まで生まれ、ワケもなくトイレットペーパーや洗剤の買い占め騒動が起こった、省エネやインフレという言葉が飛び交ったあの時代である。 ヤマハ「RZ250」の写真を見る! この頃の日本車のメインマーケットであるアメリカで、オートバイの存在を揺るがしかねない事態も起こっていた。それが70年12月に改定された大気汚染防止のための法律の改正である。「マスキー法」と呼ばれたこの法改正案は、自動車やオートバイの排気ガスを規制するもので、実現不可能とまで言われたものだった。 「75年以降に製造する自動車に関して、一酸化炭素と炭化水素、窒素酸化物の排出量をそれまでの1/10以下とする」 この規制をクリアしないモデルに関しては、期限以降の販売を認めない――実際には、厳しすぎる規制値に自動車メーカーからの反発が激しく、マスキー法は実現することなく74年に廃案となってしまうが、それほどアメリカをはじめとして、大気汚染防止への意識が高まっていた時期だったのだ。エネルギー問題と大気汚染。まっさきにやり玉に挙げられたのが2ストエンジンだった。 高性能だけれど、ガソリンをオイルと混合してじゃんじゃん燃やし、白煙を撒き散らす――そんなイメージをもたれていた2ストエンジンにかわって、世界のメーカーは徐々に主力機種の4ストエンジンへの転換を図ろうとしていた。 ヤマハも4ストのTXやXSシリーズを開発し、それまでのアメリカ向け人気モデルであるRD400にモディファイを加えていたが、もはや空冷エンジンでは規制をクリアするために性能を落とすしかなかった。アメリカではRD400を水冷化するキットがアフターパーツメーカーから販売され、テストでは明らかな性能差を誇示していた。 本物の2ストを、2ストらしい胸のすくような走りをもう一度! ヤマハは「最後の2スト」開発へと立ち上がった。厳しい規制をすべてくぐりぬけて、ヤマハ2スト技術の集大成を見せよう。その思いこそが、紛れもなくRZ誕生への第一歩だった。 ロードレーサーTZ250譲りの水冷エンジンは排気ガス浄化のために徹底的に燃焼効率を見直され、CDI点火、燃料と2ストオイルの分離給油も採用し、その出力はリッター140PSに相当する35PS! すでに下火になり始めていた2ストモデルに、再び存続の可能性を示した画期的なモデルだった。 レーシングマシンTZ譲りのモノクロスサスを採用したスタイルにチャンバー型マフラーやバックステップなど、RZはなるべくして大ヒットモデルとなった。絶滅寸前(というよりほぼ確定も同然)だった2ストロークエンジンを救っただけではなく、新たなマーケットまで作り出した。 当時の250ccといえば、ビギナーや街乗りオーナーが多いクラスだったが、そこに高性能な2ストモデルを投入したことで、一気に「スーパースポーツ」カテゴリーを作り上げてしまったのだ。結果的に後のレーサーレプリカブームも呼び込むことになる。 それまでの2スト250ccといえば、ヤマハRDやスズキRG。特にRGは、当時まだ珍しかった250cc専用設計の車体を持つスポーツバイクとして評価が高かったが、RZはハッキリ言って格が違った。 年間生産台数は国内向けに1万台と予定したヤマハだったが、予想をはるかに上回るRZ人気に生産・サービス部門の人員を倍増させて増産。急遽、アンダーカウル付きのYSP仕様を追加生産したが、納車の半年待ちは珍しくなく、最大11カ月、といった証言もあった。

中村浩史

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