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灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(93)

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 藤原あきはその半生で様々な扉を開いてきた。  第1の扉は、妾腹の娘に生まれるも裕福で何不自由のない生活から一転、満16歳で眼科医の宮下左右輔のもとに嫁にやられ、2人の娘に恵まれるも家を飛び出してしまう。  第2の扉は、『我らのテナー』で売り出し中の藤原義江に熱を上げ相思相愛となり、宮下と離婚後、義江を追ってイタリアに行き、のちに結婚する。  第3の扉は、義江が旗揚げした『藤原歌劇団』を切り盛りしながら、妻、母としての生活。  第4の扉は、より女関係が激しくなる義江と別居の末離婚、生活のために資生堂に入社し美容部長としての活躍、そしてテレビジョン到来で番組レギュラー出演により国民的なテレビタレントとなったことだ。  そして、第5の扉が開かれようとしていたが、まだあきはその扉の存在すら気づいていない。  テレビの発展は目覚ましく、ついに昭和36年テレビ受信契約数は1000万件を突破した。  あきの顔は老若男女、全国津々浦々に知られることとなり、初めの頃こそ虚栄心のようなものが満たされたものだが、最近では少し煩わしくなってきたのが本音だ。  列車などに乗車していると、座っているあきの顔をしげしげと見つめ指をさして大きな声を出す者もいる。けれど、それくらいならありがたいことで有名税だと思い気にしないようにしている。  先日も『私の秘密』の地方からの放送の際、ゲスト回答者として出演する女優・岸恵子と行きの列車で一緒になった。現地の駅に到着し一緒に改札を出ると、待ち構えた「秘密ファン」の人たちからサイン攻めに取り囲まれた。『君の名は』で名を馳せ、どの日本の女優よりも洋装姿の板に付く岸恵子よりも、あきを取り囲む人の輪はそれ以上のものだった。  あきとて、この透明感のあるうら若き美人に張り合おうなどとはみじんも思っていない。誰からも人畜無害と思われる自分だからこそお茶の間から幅広く支持を得ているのだということは十分承知している。  あきが最近特に思うのは、日本の若者が劇的な変化を遂げていることだ。毎回番組に登場する若い俳優や歌手の輝きはパリやアメリカでもお目にかかれなかったそれだ。  先日のゲスト回答者の石原裕次郎にも心底驚いた。スラックスを履きこなすのびのびとした背格好と、係(スタッフ)への感じの良い接し方は、古いものを消し去り新しい時代の到来を感じさせる破壊力の様なものがあった。  毎週、颯爽と現れる若いゲストを見るとあきも自由におしゃれをしたい気分になる。ショートパンツで銀座を歩いたり、レストランで流行のタイトスカートで決めることが出来たのならーー。  しかしそれは想像の中であり「失われていく若さに未練を持ったおしゃれをしてはいけない」というのはあきがいつも資生堂美容学校の生徒たちに口を酸っぱくして言っていることなのだ。  それほど若さというものが今世の中に台頭している時代だ。国の主役は戦争に加担した大人たちではなく、新しい世代の若者に変貌を遂げていた。  そんな日々を送る中で、その話は唐突すぎる一本の電話から始まった。 「いとこ」である池田内閣の経済企画庁長官・藤山愛一郎からだった。 「あら、愛さん。本当に先だっての件では大変お世話になりました。私には商売は向かないってことがよくわかりました。ご迷惑をおかけしましたわ」  寿司屋出店の権利金500万円を出資してもらい開店にこぎつけたものの、わずか1年足らずで店を潰してしまった件を謝った。  平身低頭のあきだが、藤山からの電話の内容の察しはついていた。「500万を返せ」などという藤山ではないことはよくわかっている。  それでは何の話かというと、この夏にある参議院選挙の手伝いに自分をかり出したいのであるに違いない。  あきは続けてこう言う。 「電話が来ると思っていましたわ。息子たちといつお手伝いにお伺いしようかと話していたところなの」  あきの言葉に藤山は電話口で少年時代のようなケタケタとした笑いをあきに聞かせる。 「お手伝いじゃないよ。そのものズバリ、あきちゃんが選挙に出るんだ」 「わたしが?」  突然の藤山の申し出にあきは、とっさに答える。 「いやーよ。政治とか選挙ってのは」 「参議院の選挙は今年の7月なのに、まだ候補者も全部決まっていないんだ。数カ月で顔と名前を覚えてもらうなんてとても無理な状況で、僕は考えた。あきちゃんほど全国に顔と名前を知られている人は他にはいない」 「政治なんて私には無縁よ。テレビの仕事だってあるし、とても無理ね。恩義があるのに申し訳ないけれど、お断りさせていただきますわ」 「絶対に落とす(落選)なんてことはさせないから。権利金の件、恩義があると思ってくれるのなら考えてくれよ!」  再び少年時代の藤山のケタケタとした笑い声で電話は切られた。  現状の仕事をこなしていくだけでせいいっぱいの中で、ましてや政治など。自分は素人であり、女性だ。女に選挙権が与えられたのも戦後になってからの最近のことである。何もわからない女の自分がしゃしゃり出ることなどありえないことだ。  この話は聞かなかったことにしよう。  そう思ってみたものの藤山に出してもらったお金のことも全く気にしないと言ったら嘘になる。  藤山愛一郎は、「藤山コンツェルン」の総帥であり、「大日本製糖」はじめ200以上の会社を傘下に持つ実業家だ。最年少で日本商工会議所の会頭や、日本航空の初代会長も務めた。  政治の方は還暦を過ぎて、民間人として外務大臣に抜擢されたのが始まりだ。第1次岸信介改造内閣で最年少の田中角栄郵政大臣が誕生した時の組閣である。  藤山の大臣就任は話題を呼んだ。民間人の大臣起用は戦後の吉田茂内閣でも行われていたが、役人上がりの起用が目立っていたので、実業家であり高額納税者としても知られる藤山の起用に永田町、霞が関はじめ国民は色めきだった。  藤山の入閣を大宅壮一や細川隆元は「絹のハンカチを雑巾に使うな」と批判し、藤山本人も「うまいこと言うものだ」と感心していたが、この言葉は流行し藤山愛一郎の代名詞にもなっていく。  あきと藤山は同じ年の「いとこ」である。母親同士が姉妹なのであるが、母・勝とあきは継母という関係なので、2人に血縁はないことになる。  あきの父・中上川彦次郎が三井銀行の社長時代に、慶応大学出身の中でも最も信頼できる部下「藤山雷太」と、自分の妻の妹・みね子を結婚させたことに始まる。  妻同士が姉妹という気のおけない縁で中上川家と藤山家は頻繁な出入りがあり、藤山の姉・美誉子とあきは、日本画の池田焦園のもとに一緒に絵を習いに通っていた。  大人になってからはあきは藤山に「藤原歌劇団」の切符を再三買ってもらっていたが、「藤山コンツェルン」があきの生家の跡地(千代田区永田町2丁目)の土地を手に入れようとした頃からぽつぽつとではあるが再び連絡を取るようになっていた。  あきの育った中上川家は6000坪の庭園付き住居であったが、幾人かの人手に渡り、昭和の初めから居ぬきで、すき焼きなどを食べさせる料亭「幸楽」に変貌を遂げ、宣伝上手な女将のもと東京名所の絵葉書になるほど知られた店となっていたが、先の大戦の東京大空襲でB-29からの焼夷弾により全焼した。  戦争が終わり10年以上の歳月がすぎても、そこだけは荒れた原っぱが残る時が止まったままの場所であった。  GHQも去り高度成長期に入った今も、都心の中心部に位置しているにもかかわらず手付かずの荒れた敷地のままだということが、通りゆく人々の眼にも違和感を感じさせている。そこに目をつけたのが藤山コンツェルンだった。  その土地は、土地台帳によると明治19(1886)年から日本セメントの苗村又右エ門、政治家の西村捨三、そして明治27(1894)年に中上川彦次郎と所有者を変えてきた。  そして大正6年に中上川家から山九株式会社の創業者中村精七郎の手に渡り、そこから3人の所有者を経て、昭和12(1937)年に競売にかけられ「幸楽」が落札した。戦後も所有者は「幸楽」であったが、昭和34(1959)年8月に藤山関連の株式会社山王国際会館の所有となった。 「あきちゃんの家だった土地は、うちが買ったよ」 「あら、愛さんが? よかったわ。前の『幸楽』はどうも気に食わなかったのよ。会食や座談会で何度か行ったけれども、『幸楽』に行くとなぜか気分が滅入るのよ。2.26事件で将校が立てこもったり爆弾が落とされる予感だったのかしら。でも愛さんとこで買ってくれれば安心よ。ところで、あすこはなにになるのかしら?」 「まだ、詳しくは決まっていないんだが、高級アパートメントにするつもりだよ。まぁ、あきちゃん、なにか困ったことがあったら言ってきてください」  その時の言葉をあきは頭の片隅に忘れず、「秋ずし」の権利金を借りにいったのだ。  藤山の方も「目指すは総理総裁の座」という射程距離がはっきりとし、1人でも多くの子飼いの議員が欲しかったところに、当面の問題として参議院選の「全国区」の候補者が決まらないことがあった。  全国どこでも同じ条件のもと1人の候補者を投票用紙に書いてもらうのだから、もとから名前が知れた候補者の方がどのくらい要領がいい話だと、藤山は考えていた。  テレビジョンで日に日に顔の売れていく「いとこ」の「あきちゃん」を見て、政治家としてうらやましくも思ったのは正直な気持ちだ。  自分は政治家への資金援助で政治というものに大きくかかわってきて、何期もやっているベテラン議員達を通りこえて鳴り物入りで外務大臣となった。  そしてその後、一兵卒として衆議院議員に出馬して議席を得た。  大臣として霞が関の一角の長に座ってはいたが、選挙民1人1人と接し声を聞いていくということは齢60を過ぎて初めての経験だった。大臣であり実弾(資金)を誰よりも持っているということは、ほかの候補者に比べれば高い下駄をはいているようなものではあるが、「藤山愛一郎」と1人1人が書いてくれなければ元も子もないという経験をした。  自分の名前は政治家で実業家でもあった父の雷太が「これからは選挙の世の中だから、同じ発音でいろいろな字が書けるような名前はだめだ」と言って名付けられたことを胸に刻み、ドブ板選挙に這いずり回った。  自分は実業家として政治には黒幕として暗躍してきたが、市井には名は通っていなかった。それから大臣となり全国に名をとどろかせたものの、選挙には不安がないと言ったら嘘になる。  顔と名前が一致し、どんなことをしゃべるのかまで知られているあきのような立場だったら、こと選挙はもっと楽だったのではないかななどと思う。 「いや、だったら、あきちゃんが選挙に出ればこんな簡単な話はないのではないか!」  それから脈々と続く「タレント候補」の構想が、藤山から藤原あきという媒体を通じて生まれた瞬間だった。  出馬要請の件で藤山は再びあきに電話をした。 「私が議員になったって、何をするっていうのよ」  断っても柳に風で出馬を勧める藤山にいささか呆れ、あきは聞いてみた。 「それはあきちゃんがこれから1人1人の選挙民と会話して、困っていることやこの国の問題点を肌身に感じて自ら政策にしていくことなんだ。順番がアベコベになってしまっているが、それはもう仕方がない。選挙に出て全国の選挙民とふれあえば、賢いあなたなら議員としてこの国のために何をやらなくてはいけないか、すぐにわかるはずだよ」  政治などとんでもないと思っているあきだが、藤山の言葉に強烈に動かされそうな自分がいたのだ。

佐野美和

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