〈ご当地ラーメン日本一〉震災後の風評被害を乗り越え、74歳店主が「白河ラーメン」でつかんだ45年目の栄光
自分からラーメンを取り上げたら何もなくなる
この頃、同じ福島の「喜多方ラーメン」が大ブレイクし、後にこのエリア一帯のラーメンは「白河ラーメン」と呼ばれるようになった。当時は白河には製麺所がなく、手打ちで麺を作るのが当たり前だった名残で、「白河ラーメン」というと「鶏ガラ」「手打ち麺」というのがお決まりになっていった。 「麺のほうが先に完成に近づいたものの、知識がなかったため、なかなかスープが追いつかない日が続きました。さらに、オープン当時は豚骨は無料でもらっていましたが、喜多方ラーメンがブレイクしたことで有料になってしまい、なお儲からなくなって大変でしたね。 その後、駅前にあった企業が移転したこともあり、客足が一気に減って、もう一度移転を余儀なくされました」(邦夫さん) こうして1990年、現在の場所(白河市鬼越)に2度目の移転をする。もう1回、一からやろうと味を見直し、落ち込んだ売り上げも回復し、1日10万円売れるようになる。駅前で調子がよかった頃の3倍以上の売り上げである。 「場所がよかったのか、腕がよかったのか(笑)。国道沿いということで地元の方以外でも遠方から来やすい場所だったというのも大きかったですね。 テレビや雑誌で紹介されてからは遠方からのお客さんが増えて、今は常連さんは1~2割で、8~9割は遠方からですね」(邦夫さん) お店が忙しくなり、家族経営で奥さんのほか、娘、息子も手伝うようになった。息子の誉幸(たかゆき)さんは小学生の頃から「将来はラーメン屋になる」と言っていた。テレビのローカル局では毎週ラーメンのコーナーができ、いろんなお店が紹介されることで、いつしか白河はラーメンの町になっていった。 「うちは弟子はとらずにここまでやってきました。子どもたちにも手伝わせているだけで、特に何かを教えてきてはいません。ラーメンは教えるものではない。見よう見まねでできていくものだと思っているので。そうやってだんだん自分のラーメンが見えていくんです」(邦夫さん) 2011年、東日本大震災が起こり、福島県は甚大な被害を受けた。地震による被害も大きかったが、何より風評被害が大きく、マスコミも福島県のラーメンをまったく取り上げなくなった。 自分からラーメンを取り上げたら何もなくなる。 そう思っていた邦夫さんは、売り上げのない時期は補償金で食いつなぎながら、絶対に人には真似できないラーメンを作り上げなければいけないと決心を固くした。これからも生きていくためには、いつか戻ってくるお客さんのためにラーメンの味を磨くしかないと考えたのである。