W杯ゴールパフォーマンスが波紋 「コソボ紛争」を振り返る
民族浄化、そしてNATO空爆
第二次世界大戦後に「ユーゴスラビア(ユーゴ)」を建国し、指導してきたチトー大統領は1980年に死去。1987年から大統領となったミロシェビッチはコソボ内のセルビア人の保護を重視しました。 それだけでなく、ミロシェビッチは「大セルビア主義」、つまりユーゴの諸民族をセルビアを中心に統合するという考えの主張者であり、そのため、各地域で反感を買い、セルビア人と他の諸民族との対立は激化しましたが、ミロシェビッチは強引にコソボをセルビアに編入し、司法、警察権などをはく奪しました。 そして1997年、あるアルバニア人教師が殺害される事件が発生すると、これが口火となって、アルバニア人側はコソボ解放軍(KLA)を結成し、両者の間で激しい戦闘になりました。 その頃のユーゴは紛争で解体され、クロアチアなど4共和国が離脱した後、残ったセルビアとモンテネグロが新しいユーゴ連邦を構成していました。コソボにおけるセルビアの権益を守るため派遣された連邦軍は、装備に優れ、またよく訓練されており、次第にKLAを圧倒してコソボのほぼ全土を制圧する一歩手前までいきました。この間、多数の住民が殺害され、あるいは強制的にコソボの外へ移住させられたのでエスニック・クレンジング(民族浄化)だと言われました。コソボ解放軍によって殺害されたセルビア人の数は約1000人、コソボ側は軍人だけで5000人が殺害されたとも言われました。
コソボにおける激しい非人道的な行為に危機感を抱いた欧米諸国は、アルバニア人に対する攻撃を中止するよう働きかけましたが、ミロシェビッチは頑強に抵抗し続けました。 そこで欧米諸国は、1999年3月、北大西洋条約機構(NATO)軍を派遣し、コソボとセルビア各地の連邦軍および警察の拠点に対して爆撃を開始しました。ベオグラード市内では、クネーザ・ミロシュ通りという幹線道路沿いに共和国政府、外務省、国防省・総参謀本部のコンプレックス、警察が並んでいますが、その多くが爆撃され、半分近くが吹き飛んでしまった建物もありました。 この激しい攻撃を受け、さすがのミロシェビッチも連邦軍のコソボからの撤退に同意せざるを得なくなりました。NATO軍はそれが実行されるのを見届けてから空爆を停止しました。