戦国の世に名を馳せた”朝倉家”の繁栄の礎を築いた「朝倉孝景」とは?
"西国一の暴れん坊"と呼ばれ、戦国時代でも有名な下剋上を成し遂げた人物として知られる「朝倉孝景」。小京都と呼ばれるほどの繁栄を本拠・一乗谷にもたらし、朝倉5代の原点となった孝景の人生はあまり知られていない。ここでは孝景がいかなる人物だったのか、を追う。 ■寝返ったことで結果的に越前に繁栄をもたらした 朝倉孝景(あさくらたかかげ)は、越前の戦国大名朝倉氏5代のなかの初代にあたる。ちなみに、朝倉氏の4代目で、5代目で織田信長と戦った義景(よしかげ)の父の名も孝景であるが、当然のことながら同名異人である。 初代孝景は、越前守護斯波(しば)氏の三家老の一人だった。筆頭の家老というわけではなかったが、守護代の甲斐常治(かいじょうち)が長禄3年(1459)に没して子の敏光(としみつ)が跡を継ぐと、孝景の勢威が強まっていく。 応仁元年(1467)に始まった応仁・文明の乱で、主家の斯波氏は、すでに亡くなっていた斯波義健(しばよしたけ)の後継をめぐって、斯波義廉(よしかど)と斯波義敏(よしとし)が争う。そのため、斯波義廉が山名宗全(やまなそうぜん)率いる西軍、斯波義敏が細川勝元(ほそかわかつもと)率いる東軍に属すこととなった。 このとき孝景は、甲斐常治の子敏光とともに斯波義廉を奉じて西軍に属している。そして、東軍の斯波義敏方を追い込むなどの活躍をした。 しかし、文明3年(1471)、孝景は越前守護の権限行使を認められるという条件を示され、突如として東軍に寝返る。このため、孝景は甲斐敏光と袂を分つこととなり、今度は越前各地で西軍の甲斐氏と戦うことになった。そして、甲斐敏光を加賀に追放すると、加賀の一向一揆とも結び、加賀における西軍の勢力をも駆逐している。 こうした孝景の働きもあって、応仁・文明の乱は、東軍優位な形で終結する。そして、こののち、朝倉氏が越前を実効支配する形となり、斯波氏は、織田氏が守護代を務める尾張への下向を余儀なくされた。 孝景が西軍に属したままであれば、西軍は有利な状況で終戦を迎えていたかもしれない。そのようなことから、孝景は主君を裏切った悪人と評されることもある。 事実、孝景が亡くなったとき、公家の甘露寺親長(かんろじちかなが)は孝景を「天下悪事始行張本也」(『親長卿記』)と評している。つまり、下剋上という悪習をもたらした張本人であるとの評価を与えていたのである。 ただ、孝景が東軍についたのは、越前守護の権益に目がくらんだだけとも限らない。甲斐敏光が斯波義敏と結ぶ動きもあったようである。そうしたことを考えると、寝返ったのは確かではあるが、それを悪事というのは一方的な見方になってしまう。孝景が越前に平和と繁栄をもたらしたのも事実だからである。 孝景が制定したといわれる家訓「朝倉孝景十七箇条」は、「朝倉孝景条々」ともよばれるが、能力による人材の登用などに言及している。孝景が制定したことを確認することはできないものの、以後、5代にわたり朝倉氏が越前を支配することとなった。 監修・文/小和田泰経 歴史人2023年3月号「戦国レジェンド」より
歴史人編集部