追悼・マイティ井上…吉原功社長が育てた最高のレスラー! 水が流れるような動きで試合のうまさは天下一品!!【週刊プロレス】
11月27日、短期間ながら国際プロレスでエースを務め、全日本プロレスでもジュニアの切り札的存在で活躍したマイティ井上が亡くなった。享年75。マイティの経歴では欧州武者修行が紹介されるが、1977年4月から4カ月間、カナダ・カルガリー地区に遠征している。マイティにとって唯一の北米遠征で、同地区を主戦場としていたミスター・ヒトとともにサーキットしている。ここでは「週刊ファイト」に連載されていた「カルガリー来た若武者たち」から、マイティ井上の項を再掲して追悼とする。(文中敬称略/構成:橋爪哲也) 【写真】マイティ井上さんの代名詞的得意技だったサマーソルト・ドロップ
◇ ◇ ◇ 新日本プロレスの選手が次々と来るまでは、国際プロレスの選手がよくカルガリーに来ていたよ。新日本はキャリアの浅い若手を送り込んできたけど、国際はそこそこキャリアを積んだ選手多かったなあ。 なかでも一番試合がうまかったのは、マイティ井上だったね。カルガリーには3カ月ほどしかいなかったら、ハメを外したような面白いエピソードはないんだけど、試合のうまさにはオレもビックリしたよ。 最初彼を見たとき、胸の厚みはあったけど背が低かったから、大型レスラーが多いカルガリーでやっていけるのかと思ったけど、そんな心配はすぐに吹っ飛んだね。あとで聞いてみたら、国際プロレスでシングル(IWA世界ヘビー級)のチャンピオンになったこともあるっていうじゃない。あの小さな体でトップを張ったんだから大したもんだよ。
カルガリーに来たのは、ちょうど女優の西尾三枝子と婚約するころ
試合でも水が流れるようにスムーズに動くんだ。ムダな動きはまったくなかったし、タイミングをとるのもすごくうまかった。技を受けるときはじっと耐えて、攻めるときはリズムに乗ってパパパッと攻めるから、試合にメリハリがつくんだよ。オレも参考にさせてもらった。 だからマイティに試合でアドバイスしたことはなかった。そんなの必要ないよ。文句のつけようがなかったんだから。スチュ・ハート(カルガリー地区のプロモーター)も彼のことは気に入ってたね。 マイティがカルガリーに来たのは、ちょうど女優の西尾三枝子と婚約するころ。アニマル浜口さんもそうだったけど、日本に婚約者がいたからカルガリーでは浮いた話はなったよ。そのへんは俊二(高野拳磁)や稲妻二郎とはえらい違いだね。 ヨーロッパにも何度も遠征してたから、欧州系の選手とは仲がよかったね。フランス語もしゃべれるから、特にアンドレ・ザ・ジャイアントとは仲良くてね。もちろんマイティの人柄もあってだろうけど。 夏になったら真っ白のスラックスをはいて、アロハシャツを着てたなあ…。リング外でもプロレスラーらしいプロレスラーだったよ。 それにしても国際のレスラーはみんな個性的だったね。それぞれ特長があって。ラッシャー木村さん、浜口さん、マイティ、稲妻、寺西勇、鶴見五郎、剛竜馬、菅原伸儀(アポロ菅原)くん、冬木弘道くん……って。吉原功社長の育て方がうまかったんだろう。それぞれの個性を生かしてね。もし潰れてなかったら、今でこそ面白い団体になっていたと思うよ。 ビル・ロビンソンやアンドレを発掘したのも吉原社長だし、金網などのデスマッチを取り入れたのも国際だったでしょ? 先見の明があったよ。そのなかでもマイティは最高の教え子だよ。まさに“小さな巨人”。彼も吉原社長に出会えて幸せだったんじゃないかな…。 <プロフィル> マイティ井上 本名・井上末雄。1945年4月12日生まれ、大阪市出身。大阪学院高校を中退して国際プロレス入り。1967年7月21日、愛知・金山体育館における仙台強(大剛鉄之助)戦でデビュー。1970年8月、西ドイツ(当時)を中心に欧州に遠征。帰国後の1974年10月7日、スーパースター・ビリー・グラハムを破ってIWA世界ヘビー級王座を奪取。国内初王座が団体の至宝だったのは異例のこと。半年間に3度の防衛を記録。AWA世界王者バーン・ガニアとの2度目の防衛戦は、世界を冠した王座同士日本初のダブルタイトルマッチ。また、全日本プロレスとの対抗戦では主軸を務める。カナダ・カルガリー地区は1977年4月から8月までサーキット。国プロ崩壊後の1981年10月、全日本プロレスに入団する。国プロ時代にはグレート草津、アニマル浜口、阿修羅・原をパートナーにIWA世界タッグ王座を6度獲得。全日本プロレス移籍後も含めて、アニマル浜口、阿修羅・原、石川敬士をパートナーにアジアタッグを4度獲得したほか、全日本ではNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級、世界ジュニアヘビー級王座にも就いた。内臓疾患による長期欠場中の1998年6月に現役を引退、レフェリーに転向する。2000年6月、NOAH旗揚げに参加。2003年からはテレビ解説も務めた。契約満了により2009年いっぱいでNOAHを退団。翌2010年5月22日、東京・後楽園ホールにおける「マイティ井上レフェリー引退記念興行」でプロレス界を引退。その後は宮崎県都城市に移り住んでいたが、兵庫県神戸市で療養中に心室細動のため11月27日、搬送された神戸市内の病院で死亡。75歳だった。 ミスター・ヒト 本名・安達勝治。1942年4月25日生まれ、大阪市天王寺区出身。出羽ノ海部屋に入門して1960年五月場所で初土俵。浪速海の四股名で最高位は幕下17枚目。生涯戦績は150勝129敗1休。九重部屋独立騒動の余波を受け、1967年初場所を4勝3敗で勝ち越して廃業、日本プロレスに入門、同年6月にデビューする。1973年1月、永源遙とともにアメリカ遠征に旅立ち、タッグチームとして活躍。日本プロレス崩壊後、永源が新日本プロレスに帰国後はカナダ・カルガリーを拠点に、北米、欧州、日本、東南アジアなど世界をサーキット。スチュ・ハートの信頼を得て、レスラーだけでなくブッカー、コーチをも務め、阿修羅・原、獣神サンダー・ライガー、馳浩、橋本真也、ブレット・ハート、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス、クリス・ベンワー、クリス・ジェリコなどを育てた。ジャパン・プロレス全日本の命を受け、D・キッド&D・スミスを引き抜く。カルガリー地区閉鎖後は帰国し、SWSでレフェリー兼ブッカー、PWCでレフェリー兼コーチ、大日本プロレス、レッスル夢ファクトリーでコーチなどを務める。一枝夫人死去後に2人の娘が住むカルガリーへの移住を考えるも体調不良によりかなわず。2010年1月、糖尿病悪化により左足を切断。同年4月21日、左化膿性股関節炎により死亡。67歳だった。
週刊プロレス編集部