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作家の視線と実践から見る、コレクション展 高嶋慈評 大阪府20世紀美術コレクション展「ココロヲウツス」

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美術手帖

フレームと揺らぎの狭間から、「キュレーション」を照射する  「コレクション展の選定アーティストに選ばれる」というかたちで制度に巻き込まれつつ、そのことを自覚的に引き受け、制度自体をどう批評的に眼差し返すか。本展において、所蔵作品群と自作の並置に加え、「フレーム」という装置の顕在化、「現在時の状況」を告示する様々な計測機器、物理的な展示状況と記録冊子の掲載写真とのズレなど、複数の仕掛けを介入させた麥生田の試みは、「キュレーション」という営為についてメタ的に照射するものとなった。  会場に入ると、コレクションから選ばれた作品群(多くは写真)と麥生田自身の写真作品が、キャプションもないまま、ゆるやかに混在している。「水面をとらえた写真」「モノクロの構成美」などグルーピングの関連性が瞬時に把握できる壁面もあれば、近づいてよく見ると、構図や形態の類似性に気がつく壁面もある。だが、本展は、そうした関連性(類似と差異の「発見」)を読み解く楽しみだけにはとどまらない。注視の眼差しは、「作品」の周囲に仕掛けられた不穏なノイズへと横滑りしていくだろう。気温計、気圧計、照度計、時計、文字通りノイズを発するガイガーカウンターやラジオの受信機。壁の日めくりカレンダーは毎日破られて紙片が溜まっていき、観客も入場者カウンターの数値の更新としてカウントされる。場の恒常性は秘かに揺るがされている。また、ひとつの壁面ごとに必ず、「その壁面を撮影した写真」が入れ子状に作品然として「展示」されている。だがその位置は、配布された記録冊子をめくれば、「マスキングテープで場ミリされた空白のフレーム」に置き換えられている。そして、麥生田の写真作品は、梱包材や木箱の上に置かれたり、ラフな仮止め状態にとどめ置かれ、あたかも作業途中であるかのような、流動的な仮設性を加速化させていく。  こうした仮設性や「空白のフレーム」の存在は、極めて示唆的だ。キュレーションとは、美術史的、社会(史)的、造形性など文脈づけによる関係性の構築であり、ある必然性にもとづく選択と配置の行為だが、同時に咨意的でもあり、設定されたキーワード(変数)が変われば、組み合わせも配置も異なってくる。空白のフレーム=「x」の項は、まさにその代替可能性の示唆であり、見る者は、「自分ならコレクションから何を選び、そこに代入するか?」という想像とともに、麥生田のキュラトリアルな行為を追体験するのだ。  このように、「メタキュレーション」を真の企図として浮上させる本展の白眉は、アルフレッド・スティーグリッツの写真作品《春》(1901)を中心に構成した壁面である。穏やかな川辺に佇む少女の後ろ姿をとらえた1枚は、柔らかな陰影や安定した構図のなかに、スナップショット的な眼差しの萌芽を胚胎している。その傍らには、撮影年と同じ「1901年」に製造された懐中時計が掛けられ、時を刻んでいる。両者を大型の木枠のフレームがさらに囲い込み、その周囲に別のスティーグリッツ作品や麥生田作品が並ぶ。自身の主戦場であるスナップショットの先駆者へのオマージュ。加えてここには、「フレーム」についての考察が、幾重にも胚胎する。視線のフレーム(カメラへの自己言及)、意味づけのフレーム(キュレーションへの自己言及)、そして「時間」というフレーム。撮影年と同年に製造され、かつ「いま現在」の時刻を刻み続けるアンティーク時計は、作品を見る行為が、「それがつくられた時間(過去)」と「見ている現在」という時制の複層性をつねに伴うことを示唆する。「作品を見る」行為がそうした時間的多重性とともにあり、かつ(キュレーターによる)外部の眼差しやなんらかの意味づけのフレームの内部にあること、しかしそのフレームは絶対的ではなく仮設的であり、つねに揺らいでいること。そうしたメタ的思索を、作品現物を用いて提示した、優れた物理的図解となっていた。  そのいっぽうで、(麥生田自身がどこまで意図的かは不明だが)「空白のフレーム」、すなわち「そこに本来あるべきだった作品が不在化・消去されている」事態は、検閲あるいは自主規制という暴力的な介入の痕跡をも想起させる。そのとき、「キュレーション」をめぐる思考は、「そこで何が可視化されると同時に、抑圧・不可視化されているのか」というポリティカルな問いへと拡張されていく。「空白のx項」は、「未だ書き込まれざる想像的余白」であると同時に、「排除が実行された痕跡」でもある。私たちは、その両者を同時に眼差すことを要請されている。  ところで、これらの「大阪府20世紀美術コレクション」には、恒常的な展示施設としての「府立美術館」がない。バブル期にあった美術館建設構想が頓挫したためだ。ここで最後に、「廃棄予定の額縁や梱包箱をあえて自作の展示に用いる」という麥生田の身振りに着目したい。それは、パレルゴンへの制度的な目配せや、「自作を公共コレクションの中に擬態的に取り込む」行為に透けて見える欲望だけにとどまらない。ガラス面にヒビが走り、損傷した額縁や劣化した梱包箱は、「コレクションの維持管理」に費やされる消費財や人的労力の示唆を通して、美術館の根幹的機能を逆照射する。  このように本展は、規範的な「展示」のルールを逸脱するような実験性と思考性によって、「美術館なき公共コレクション」の活用を、「アーティストだからできること」として示しえていた。

高嶋慈(美術・舞台芸術批評)=文

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