【小倉智昭さん追悼】子どもの頃につけられた「酷いあだ名」が悔しくて…実は克服してなかった吃音など、小倉さんが自著で明かしていた「本音」とは
「これはよく話すエピソードなんだけど──七夕の短冊に願い事書くじゃないですか。小学校のときは、ずっと『どもりが治りますように』って書いていた。でも、それで治るはずがない。それで小学校5年生のときに、親父に、 『たなばたの短冊なんかうそだ。どもりなんか治らないもん』 って言ったら、親父がそのときに言ったんだよ。 『智昭、夢は持つな』 小学校5年の男の子に、ですよ。親父はこんな風に言っていました。 『夢は持つな。夢は夢で終わるんだ。夢はかなうというのは、夢がかなった人しか言わないことで、夢がかなわなかった人はそんなこと言わないんだ。夢なんか持たなくていい。目標を持ちなさい。目標だったら自分に合った目標を持てるだろ。その目標を達成したら、次の目標を考えればいいじゃないか』 これが小学校5年のときの親父の教え。いまだに、それは印象に残っているの」 子供に対しての教えにしてはかなりシビアなものなのだが、小倉さんは実際に自分なりの工夫で少しずつ、しゃべりを向上させていったようだ。 「もとはといえば、独り言はどもらないっていうのに気がつくんですね。相手がいるから必ずどもるんですよね。事前にやりとりを考えたり、何かを伝えようとしたりすることでどもるんですよ。ただ、一人で話すのは、自分で好きなペースで話せるじゃないですか。だから、どもらない。 それから学校で教科書は案外、読めるんですよ。結構うまく読む。 一番大きかったのは、歌はどもらないというのに気がついたこと。話すときとは呼吸法がどこか違うんじゃないかとか、メロディとかリズムがあるからどもらないのかとか。自分でいろいろ考えたものです。 小学校の途中で親父がまた転勤して、秋田に戻るんですが、そのときの担任の先生の存在が大きかったです。NHKの放送劇団にいたことがある先生で、僕が演劇のセリフを言ったりするとわりあい評価してくれて、地元のNHKの児童劇団に連れていってくれたんですよ。『やってみたいか』って訊かれて、『やってみたい』と。それで演劇をやらせてもらったのが一番大きなステップになりましたかね。 マイクの前で話すと、これは意外に話せるかも分からないという気持ちになれた。僕の場合はちゃんとした本番の番組には出ていませんが、演劇の稽古には参加していた。『少年探偵団』とか放送したものの焼き直しを稽古していたんですね。 セリフは多くなかったけど、やっていくうちに自分で、ああ、こういうことだったらできるのかなって気がつくようになった。それからは積極的になっていって、中学のときに弁論大会に出たりとか、生徒会に立候補して演説してみたりとか、そういうことができるようになる。 このあとまた中学校から東京になって、それ以降は東京です。 もともと性格は小さいときから、そんなに内向的じゃないんだよ。しゃべれないから引っ込み思案にはなるんだけど、内向的とは違って、できれば表に出てって騒ぎたい。自分の強いことでお山の大将になるのが嫌じゃなかった。マラソンなら負けないぞ、とか。 だけど、吃音があるのにしゃべりすぎるのも周りに迷惑だからね。本当に周りの人のペースを考えたら、そう思いますよ。 それにひどいのは、僕の子供の頃は、『どもりはうつるから』なんてことを平気で言う人も珍しくありませんでした。『どもりの真似したらどもりになっちゃうよ』という意味なんですが、実際に僕の周りの子はみんな言われたんじゃないかな。『智昭ちゃんの真似しちゃ駄目よ』とかって。でも、真似する子はいたけどね。 僕は人の真似したわけじゃなくて、気がついたら吃音だったんで何が原因なのか分からない」