【樋口尚文 銀幕の個性派たち】追悼綿引勝彦、頑な過ぎてかわいいひと
殺気の人として、じわじわと
映画をひと味もふた味も変える魅惑のスパイス、そんな個性的俳優たちを、映画評論家で映画監督でもある樋口尚文さんに、おひとりずつフィーチャーして、その魅力を語っていただきます(ぴあアプリ「樋口尚文 銀幕の個性派たち」より転載) 2020年の暮れも押し詰まった頃、またひとり惜しいバイプレイヤーが亡くなった。11月に75歳になったばかりの綿引勝彦は、数年前からの闘病を伏せて、静かに身のまわりの整理をしていたという。まさにイメージそのままの晩年だが、最初に綿引勝彦のことを知ったのは1976年の松竹映画『超高層ホテル殺人事件』でのことで、まずその特徴的な芸名のクレジットが気になった。当時の綿引は「綿引洪」を名乗っていた。私は「わたひきこう」と呼んでいたが、正確には「ひろし」である。この映画は綿引の最初の本格的な映画初出演作であったが、やはりこれが初プロデュースであった野村芳樹の父・野村芳太郎監督の『八つ墓村』『事件』などにも顔を出している。 もっともまだ眼光の鋭い精悍な青年という感じの「綿引洪」時代は、映画でもそんなに目立つ役ではなかった。ただすでにして綿引の芸歴は十年近く、60年代後半に日大芸術学部演劇学科を中退、劇団民藝に入ってからは『日本改造法案大綱』『鎮悪鬼』などの舞台に立って注目され、1971年のNHKドラマ『私の娘を知りませんか』あたりから続々とテレビドラマには顔を出していた。このドラマのヒロインであった樫山文江は劇団民藝の二期先輩であったが、74年に綿引と結婚した。66年のNHKテレビ小説『おはなはん』のヒロインをつとめた樫山は広い人気を集めていたので、この頃の綿引はむしろ樫山の夫ということで知られていたかもしれない。しかし綿引は70年代のテレビ映画、スタジオドラマを中心に刑事物からホームドラマから時代劇までこつこつと出演を続け、お茶の間に「いつものあの人」と知られるようになった。 その綿引の努力がじわじわと実って顔と名前がしっかり一致しだしたのは、ちょうど「綿引洪」からオーヴァーラップするように本名の「綿引勝彦」が定着した80年代前半のことだろう。綿引の追悼記事に「やくざ映画の印象が強いがホームドラマで人気を博す」的な書かれ方がされていたが、これはまるで「印象」に過ぎず、デビュー以降特に悪役やアウトローが多かったわけではない。ただあの風貌なので、刑事であれ剣豪であれ「殺気」漂う役は目だったかもしれない。綿引が比較的多く「やくざ映画」に顔を出したのは、40代になって貫禄も増してからのことで『極道の妻たちII』『極道の妻たち 三代目姐』『姐御』など80年代も後半のことだ。