【解説:武田 砂鉄】統制から自滅、そして俯瞰へ 『FAKEな日本』(レビュー)
文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開! 本選びにお役立てください。 (解説:武田 砂鉄 / ライター) 以前勤めていた出版社で、森達也と鈴木邦男と斎藤貴男による鼎談本『言論自滅列島』(河出文庫)の編集を担当したことがある。二〇〇五年に講談社から刊行された『言論統制列島』を二〇一一年に文庫化したものだ。そのまま文庫化するだけではさすがに時間が空き過ぎているので、巻末に長めの新規鼎談を収録した。 鼎談後、軽い打ち上げを経て、だらだらと歩いて駅に向かい、改札でICカードをかざそうとするタイミングで、三人が見当たらなくなったことに気づく。数歩下がって首を振ると、三者とも切符売り場で財布を取り出し、切符を買っていた。理由はそれぞれだった。ずっとこれでやってきたんだから。乗車履歴を握られてたまるか。そんなに乗らないし。そんな感じだったと思う。面倒臭い人たちだな、と思いつつ、この面倒臭さにちょっとした憧れを持った。ICカードを手に改札へ向かっていかない人間が圧倒的少数派になった。今、森に聞いても、絶対に覚えていないと思うが、自分はあの光景を色濃く記憶している。こうでなきゃ、と思ったのだ。 その追加鼎談で、単行本刊行時のタイトル『言論統制列島』というタイトルのままでいいのだろうか、と提起したのが森だった。以下に引用してみる。ちなみに、「編集者」と表記されているのが私である。 森 ところで今回、この『言論統制列島』ってタイトルは、このままいくんだっけ? 編集者 改めて読み直して感じたんですが、『言論統制列島』の「統制」って、誰に統制されてるんだろうと疑問に思いまして、むしろ今は「言論自主規制列島」なのかなと。 鈴木 「自滅列島」がいいんじゃない? 編集者 単行本のあとがきで、鈴木さんは「言論封殺列島」ってことなんじゃないかと書かれていますね。 斎藤 でも、統制も封殺もする必要がもはやないわけだから。文庫化したことを強調するために、「言論自滅列島、旧タイトル、言論統制列島」ってしとけばこの五年間の変化がわかるんじゃないかな。 その後、森が「思いきって『三バカ大将荒野を行く』とかはどう?」などと続けたのはさておき、こう述べている。 「統制から自滅は確かに一理ありますね。オーウェルの『1984年』におけるビッグ・ブラザーと一緒。統制する主体は存在していない可能性がある。でも誰もが統制や管理されていると思い込んでいる。だからレジスタンスも機能しない。だって闘う相手がいないのだから」 この文庫本が発売されたのは、二〇一一年三月八日のこと。つまり、東日本大震災の三日前。当然、書店に行って新刊を買って本を読みましょう、という環境ではなくなった。言論の世界は、統制から自滅へ、ではなく、統制と自滅を行き交うように、未曾有の事態の中、手探りで言葉を探し出していった。3・11直前、あの森達也が「だって闘う相手がいないのだから」と述べていた。統制する主体は、さほど見えていなかったのだ。震災後、民主党政権が倒れ、第二次安倍政権が始まった。自分の近くで賛同してくれる人の意見(当然、それは、いつだって賛同になる)ばかりを優先する政権の中で、安全保障法制、特定秘密保護法、共謀罪といった「どうしてもやりたいこと」の数々が、説明不足のまま、「だって、どうしてもやりたいんだもん」という駄々によって成立していった。 意見が割れ、反対の声がぶつかり、それを避けながらゴリ押しした。すっかり流行り言葉になったが、分断、という言葉を安直に使いたくはない。それ以前の問題に思えたからだ。たとえば、共謀罪。これまで三度も廃案になってきた共謀罪が、どのように構成要件を改めたのかについて、金田勝年法務大臣(当時)は「私の頭脳が対応できなくて」と、信じがたい理由で回答を拒んだ。あるいは、その適用範囲について、安倍晋三首相(当時)が「そもそも罪を犯すことを目的としている集団でなければならない」と答え、それに準じるならば、そもそも犯罪集団ではなかったオウム真理教は対象外になりますね、と問われると、首相は「『そもそも』の意味を辞書で念のために調べたら『基本的に』という意味もある」と逃げてみせた。「これがないと2020年の東京五輪が開けない」などという見解まで付け加え始めた。 こうやって、圧倒的な未熟と、超強引な理屈と、謎めいた規定を差し出された上で、賛成か反対かを問われること自体、奇妙に思えた。分断ではない。出直してこい、という気持ちになる。この国は国民主権。主権は私たちにあるのだから、実力が足りていないのに居直っている政治家に対しては、おい、お前ら、代わりにやってもらっているだけなのにどうしてそんなに偉そうなんだ、と詰問するところから始めなければいけない。賛成・反対を表明する段階にない。反対、というより、先方の実力不足なのだ。実力が不足したままなので退場してください、と主権者が申し出ることって、分断ではない。とりわけこの数年、ずっとそのことを思っている。 この解説原稿を書いている現在(二〇二〇年一一月三日)、国会では、日本学術会議の任命拒否問題が取り上げられ、菅義偉首相は「総合的、俯瞰的に判断した」と繰り返している。理由を聞いているのに、自分の視点を言い訳にしている。広い視野で判断したんですよ、という言い訳が機能すると思っている。 舐められている。彼らが舐めているのは何か。国民はもちろん、それ以前にメディアが舐められている。あいつら色々うるさいけど、でもまあ、放っておけば忘れてくれるし、それでもうるさければプレッシャーをかければいい、なのだ。本書にも記されているが、二〇〇一年、NHKで放送されたETV特集シリーズ「戦争をどう裁くか」の第二夜「問われる戦時性暴力」の放送内容について、当時、内閣官房副長官だった安倍晋三や経済産業大臣の中川昭一が、上層部に圧力をかけた。安倍はNHKの放送総局長に対して「勘繰れ、おまえ」と言った。メディアごときが忖度しろよな、と露骨に迫ったのだ。NHKは、何を偉そうに、と突き返すことはしなかった。その後、なにかと「中立公正」が問われ、メディアは、偏向しているのではないかと査定されるのを異様に怖がり、明らかな悪事がいくつ転がっていても、「批判が高まりそうだ」「野党の議論も物足りない」などとお茶を濁す癖を身につけてしまった。 本書で、森がこのように言っている。この数年、森と対話の機会を得る度に、同様のことを、口癖のように繰り返す。 「もしもこの国のメディアが三流であるならば、この国の国民も三流なんです。そしてその国民が選ぶ政治家も三流です。ネットなどではよくマスゴミと書く人がいるけれど、もしもこの国のマスコミがゴミならば、社会もゴミのレベルです。だって市場原理なのだから。メディアと政治は社会の合わせ鏡です」 この本に登場するインタビュイーの人たちは、世の中的には、タブーに挑む人たちと括られるかもしれないが、実のところ、タブーに挑んでいるのではなく、言いたいことを言い続けているだけだ。タブーの設定値がおおよそ低くなったことで、ありとあらゆることがタブー視され、特異な意見として追いやられる。「勘繰れ、おまえ」と言われたら、「勘繰らねぇよ」と返す。その行為自体、特に勇敢なわけではなく、ただ当たり前のことを貫いているに過ぎないのに、特異で勇敢な存在だともてはやされる。 今、この社会から、空気を読む、という抽象性はもはや薄まり、どうしてお前は空気を読まないのか、という具体的な強制性に転化しつつある。忖度しろよ、自粛しろよ、同調しろよ。共通するのは、お前らのほうで黙って体を整えてこい、という姿勢である。新型コロナウイルス感染拡大に伴い、「自粛要請」や「自粛警察」なんて言葉が飛び交ったが、個人の主体的判断を他人が操縦しようと試みる薄気味悪い言動は、強制性の具体化そのものだった。 政治が悪い。メディアが悪い。国民が悪い。私たちは、そのうちのどれかに責任を押し付け、その選択から逃れたものを探す。しかし、どうしたってそれらは相互に伝播している。どこにも体を寄せられない。すると、分析する人、議論する人が、やたらと客観性に逃げる。どっちもどっちだ、とか、対案がないのにそんなことを言うな、とか、厳しい言葉を発しているだけではダメだよ、とか、冷静にバランスをとりつつ、少しでも賛同の声をもらえそうなところを探そうとする。カッとなっている人もいますが自分は冷静です、と書き添えながら、メディアで大活躍する。つまり、俯瞰する。自分はこうやって、どんな意見にも与せずに、全体像が見えていますよとプレゼンをする。個人の目線で、個人の思いで、個人的な言葉を吐き出している人を、ハハハ、そんなに怒らないで、もうちょっと全体像を見てごらんなさい、と牽制することがクレバーだと言われるようになった。これがとても気持ち悪い。慣れたくないし、ましてや、書き手として、そこに片足を突っ込みたくない。