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森重真人のこれまでとこれから。節目の年に語る地元への思いとファンへの思い

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VICTORY

物心がつく前から転がるボールに胸を焦がしてきた。生まれ育った広島、プロのキャリアをスタートさせた大分、そして東京。プロ15年目の森重真人は歩んできた道で、いつも応援してくれる人たちの思いを近くに感じていた。寡黙を演じてきた“モリゲ”が、まっすぐで、これまで語ることの少なかった素直な気持ちを口にする。33歳になったいま、サッカー選手としての本音を語った。(取材・文=馬場康平) *このインタビューは2月のJ中断前に行ったものです。

森重真人を育んだサッカーの街・広島

―森重選手自身、どんな少年時代を過ごしたんですか? 「サッカーがとにかく好きでした。サッカーを見るよりも、自分がボールを蹴って試合をするのが、練習するのが楽しかった。近所の友達と公園や学校でとにかくボールを追いかけていました。そういう少年だったので、努力をしたというよりも、自らが臨んで毎日サッカーに没頭していた」 ―ご両親に話を聞くと、ボールさえ渡しておけば子育てが楽だったと話していました。 「そうですね(笑)。もう家の近くに広めの駐車場があって、隣が同じ男三兄弟で3人ともサッカーをしていた。そういう環境だったので、ボール一個あればよかった。外に行ってサッカーをしてお腹が空くと家に帰ってきて夕飯を食べてという毎日でした。家にいるよりも、ボールを蹴っていることが何よりの遊びだった。そういう記憶はあります」 ―実家を訪ねると、河川敷もたくさんあって、ボールを蹴るには最高の環境ですね。 「河川敷もそうだし、ランニングコースも、坂道もあった。いま振り返ると、たまたま生まれ育った場所には最高の環境が整っていて、それをうまく利用していたのだと思います。河川敷が広がっていて、そこには橋が何本も架かっていて、橋から橋まで何分で行けるか自分でタイムを計っていた。『今日はこの前のタイムよりも速く』とか、自分で目標をつくりながら毎日練習していました」 ―実家の隣にも、Jリーガー(渡大生/大分トリニータ)がいるってすごい環境ですね。 「それは、珍しいことだと思う(笑)。自分が小学校高学年のときに、まだ渡は小さかったですが、一緒にボールを蹴っていた。そのころからサッカーがうまかった。ああいう子が、プロになっていく姿を近くで見られたのは面白かったですね」 ―やはり生まれ育った場所からJリーガーは多く出てきてほしいですか? 「自分たちがサッカーをやっていた当時よりも、高陽地区のサッカー人口は減っていると耳にしました。僕たちも、そのためにできることを今後もっとしていきたいと、考えています。地元がサッカー選手を育てられる環境や、仕組みが備わっているというのは強みなので。そういうことを発信したり、プロになってできることはたくさんあると思うので、地元に恩返ししていきたいと思います」 ―その高陽FC時代に出会った恩師の植松和広さんは、そのサッカー人生においても大きな影響を及ぼしたひとりですね。 「いまでも試合が終わったり、シーズンが終わったり、シーズンが開幕するような節目にはメールをくれます。昨シーズンのゴールを決めたJ1第32節湘南ベルマーレ戦の試合後も、メールが届いて思わず小学校時代を思い出しました。当時のポジションはFWだったので、よく『シュートを枠に入れないとワクワクしないな』って言われてきたんです。試合後に携帯電話を見ると、『やっぱり枠に入れると、ワクワクするのう』って入っていて懐かしさを覚えました。そうやって小学校時代に指導を受けたことが、いまにも生きているとあらためて思いました。そういう方々に、いまでも声をかけていただけることをうれしく思います。逆に、自分が活躍することでお世話になった人たちを喜ばせることはうれしいですね」 ―サッカー選手として、子どもたちにどういう背中を見せていきたいですか? 「もちろん現地でサッカーを観戦することもできますし、DAZNやさまざまな放送局があって映像を端末で簡単に見られる時代です。サッカーを身近に感じられると思うので、「『こういう選手になりたい』と思ってもらえるプレーヤーになりたいとずっと思ってきました。これからいろんなメディアの力を借りながらそういう発信もしていきたいと思います。いま在籍している東京だけではなく、常に地元の広島や、大分にも感謝の思いを持ってプレーしてきました。広島に試合で行ったときは、横断幕を掲げてくださる方がいまもいますし、帰省したときにはいろんな人から連絡をいただいて食事にも行きます。自分が活躍することで恩返ししていきたいと思います」

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