巨人OBが40歳落合博満に苦言「あるまじき行為なんじゃ」…あの“伝説的”完全試合のウラ側、槙原寛己が痛恨のミス「じつは落合さんのおかげです」
40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。 あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 当時を徹底検証する書籍「巨人軍vs.落合博満」が発売1カ月で3刷重版と売れ行き好調だ。 その書籍のなかから、「あの完全試合のウラ側」を紹介する。巨人1年目落合博満40歳は濃いシーズンを送る。あの完全試合の夜、落合は槙原寛己の大ピンチを救っていた。【全2回の後編/前編も公開中】 【貴重写真】「これが巨人最悪の大乱闘!」激怒した巨人グラッデンのジャブ→アッパー、両軍のケンカ&7日後のあの完全試合や20代落合などすべて見る ◆◆◆
「ゴネ得」週刊誌から叩かれた槙原寛己
男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない――。横浜スタジアムでの先発試合が3回途中で流れた翌16日、槙原寛己は元広島投手で脳腫瘍により亡くなった津田恒実のドキュメンタリー番組を食い入るように見た。前夜にNHKで放送された番組を妻が録画しておいてくれたものだ。ふたりはともに1981年ドラフト1位でプロ入りしている同期生で、津田は1982年、槙原は1983年の新人王に輝いている。背番号17は福岡遠征のため自宅を出る直前まで、そのビデオを見ると、こんな言葉を呟いたという。 「津田さんは野球がやりたくてもできなかった。あの人のことを考えたら、オレは投げられるだけ幸せだと思うよ」 前年オフ、FAでの他球団移籍が報道される中、長嶋茂雄監督から17本のバラ(実際に数えたら20本だった)を贈られ、巨人残留を決めた槙原だが、前年の推定年俸7800万円から1億2000万円への大幅アップに加え、功労金4000万円、3年間のトレード拒否権といった当時としては破格の好条件は、“ゴネ得”と週刊誌から叩かれた。しかも、春季キャンプは右ふくらはぎ痛で出遅れた上に、復帰後すぐに今度は左ヒザ痛でリタイア。チーム投手最高給でありながら、度重なる離脱は自己管理の甘さを指摘された。
落合「何やってんだ!」
5月18日の福岡ドームの試合でさえ、直前に門限を破り、1カ月の外出禁止を言い渡され、18日に勝利投手になればそれが解かれる自由への戦いだった。初回、槙原はカープ打線を三者凡退に抑え、その裏に四番落合博満の右中間フェンス直撃のタイムリー二塁打で巨人が先制する。そこから快調に飛ばし、5回二死で金本知憲を投ゴロに打ち取り、これで勝ち投手の権利だと思った瞬間、気持ちが緩んだ槙原は危うく痛恨のミスをしかける。 「余りに浮かれたボクは、ボールを中途半端に1塁に放ってしまいました。ボールは、フォーク以上に、明白に落ちました。そう、ワンバウンドです。『! 』1塁の落合(博満)さんが、必死になって体で止めてくれた。『何やってんだ』って顔してましたよ。ありがとうございます、落合さん。自由を得られたのは、落合さんのおかげです」(プロ野球 視聴率48・8%のベンチ裏/槙原寛己/ポプラ社) ここがゲームのターニングポイントだった。九死に一生を得た背番号17は、その後危なげなくひとりの走者も許さないまま、9回表のカープの攻撃を迎えるのだ。午後8時14分、広島27人目の打者・御船英之の打球は一塁側ファウルグラウンドに力なく上がり、落合が構えたミットにおさまった。その普段は常に余裕すら感じさせるオレ流らしからぬ懸命な打球の追い方と、三塁を守る長嶋一茂のバンザイと、マウンド上でジャンプする槙原の姿は、「平成唯一の完全試合」として人々に長く記憶されることになる。
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