フェラーリ「250GTルッソ」を「250GT」風にカスタムした車両が2億2300万円も…ファントゥッツィによるモディファイと聞いて納得です
フェラーリ愛好家を惹きつけている最大の要素はスタイリング
しかし、ルッソが今日に至るまで尊敬を集めているのは、性能の高さだけではない。跳ね馬のバッジを冠したクルマのなかで、もっともエレガントなフォルムを有するモデルのひとつと称されるスタイリングこそが、今なおこのクルマを愛してやまないフェラーリ愛好家を惹きつけている最大の要素といえるだろう。 キャビンを構成する典雅なスウィープラインと、優美なカーブを描いたリアスクリーンが織りなすボディラインは、最終的にはファストバックから「カムテール」あるいは「コーダ・トロンカ」へと流れていく。フロントには、シャシーを共有する250GT-SWBベルリネッタよりもさらに低くて長いノーズと、3分割された個性的なバンパーが設えられ、独特のエレガンスを醸し出している。 そしてこの耽美的な美しさを証明するかのように、スティーヴ・マックイーンが初めてのフェラーリとして選択したほか、「帝王」と呼ばれた世界的指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンも愛用するなど、世界中のセレブリティたちの美意識を大いに刺激したのだ。
4リッター版GTOへのトリビュートスタイルに大改造!
このほどRMサザビーズ「Cliveden 2024」オークションに出品されたフェラーリ250GT/Lベルリネッタ、シャシーナンバー「4383」は、350台が生産されたというルッソの16台目とされている。 フェラーリの世界的権威、マルセル・マッシーニ氏の記したレポートによると、この個体は「グリジオ・アルジェント(シルヴァーグレイ)」のボディに「ネロ(黒)」のコノリー社製レザー内装の組み合わせで、1963年3月20日にマラネッロ工場からラインオフ。4月4日にボローニャのフェラーリ正規ディーラー「ソチエタ・イタリアーナ・ヴェイコリ・アグリカルチュラル・エ・モトーリ」社に引き渡され、その5日後には575万イタリアリラという高額で、初代オーナーであるルチアーノ・ペデルツァーニに納車された。 ルチアーノと弟のジャンフランコは、そのわずか2年前に「TECNO(テクノ)」レーシングチームを共同で設立していた。もともとはレーシングカートを製造していたが、のちにフォーミュラ3マシン製作にも進出。ちょうどこのルッソを所有していた1967年シーズンには65戦中32勝を挙げるなど、コンストラクターとしての成功を収め、さらに1970年代には、自社製フラット12エンジンとともにF1グランプリにも進出する。ちなみにF3における最初の勝利は、のちにフェラーリとともにF1レースで大活躍するクレイ・レガツォーニの操縦によるものだった。 この間、シャシーナンバー4383はモデナにあるフェラーリ本社工場の「アシステンツァ・クリエンティ(顧客サービス部門)」によってメンテナンスされた。1964年2月に、ボローニャのナンバー「BO 179199」で登録されたのだが、その後このクルマはオリジナルの仕様から変身を始め、現在の唯一無二のスタイルに至る第一歩を踏み出してゆく。 まず、1965年ごろに250GTルッソの後期型エンジン(5193GT)に換装されたのち、ペデルツァーニ兄弟はTECNO製マシンのボディワークを担当したカロッツェリアを訪れ、愛車ルッソの部分的なボディ変更を依頼する。その工房とは、マセラティでは「A6GCS」から「250F」に至るまで、フェラーリでも「156F1」や「ディーノ166P」など一連のレーシングカー製作で大成功を収めていた「メダルド・ファントゥッツィ」である。 いっぽうペデルツァーニ兄弟の目的は、フェラーリで4台が製作された純コンペティツィオーネ「330LMB(250GTOの4L版)」のうち、250GT/Lルッソに近いボディラインを持つ「4381SA」や「4453SA」に似せるためのモディファイ作業を、フェラーリ製コンペティツィオーネ経験の豊富なファントゥッツィに委ねることだった。 F1マシンも製作するだけの高い技術力を有していたファントゥッツィにとっては、この種のボディ改装は容易なことだったようで、彼らはより小型で丸みを帯びたグリルを採用し、3ピースのバンパーをグリル左右の2ピースに変更。さらにヘッドライトをより後方に配置し、プレクシグラス製の透明カバーでフェアリングを施した。