捕手、内野、外野を経験、西武の四番も務めた屈指のユーティリティー性を持つ名選手とは
1994年に常勝・西武を率いていた森祗晶が勇退。かつてのエースだった東尾修がその後を受け継いだが、監督が変わったことで大きく成績が落ちるのではという声もあった。しかし、そうした不安を打ち払うように、東尾西武は毎年のようにリーグ優勝を争う強さを発揮。その強さの要となったのが高木大成だ。今回は、高いユーティリティー性とシュアなバッティングで西武を支えた高木大成の活躍を紹介する。 高木大成が清原以来の単独入団会見【1995年12月12日】
西武を逆指名して入団
桐蔭学園高で主力として活躍した高木は、高校選抜メンバーにも選出。チームのキャプテンとしてアメリカ遠征も経験した(当時の選抜メンバーには松井秀喜や礒部公一、三沢興一もいた)。高校最高の捕手という評価を受けていた高木はプロ注目の存在だったが、大学進学のために指名を辞退。慶大に進学することとなった。 慶大でも持ち前の打撃力をいかんなく発揮した高木は、大学通算95試合で打率.286、13本塁打、61打点をマーク。高校3年時と同様にプロから大きな注目を集めた高木は、1995年ドラフトで西武を「逆指名」。12月に西武と正式契約を結び、球団では清原和博以来となる「単独での入団会見」を行っている。「成せば成る」と自ら書いた色紙を手に、決意表明をした場面を覚えている西武ファンも多いだろう。
打撃力を生かすために一塁へコンバート
「打てる捕手」として大きく期待された高木だが、大きな壁が立ち塞がる。当時不動のレギュラー捕手だった伊東勤だ。ルーキーが球界最高レベルの捕手からポジションを奪うのは当然ながら難しかった。それでも伊東を上回る打撃力が評価され、1年目から16試合でスタメンマスクを任された。それだけ高木に懸ける期待は大きかった。 とはいえ、捕手としては伊東を外すわけにはいかず、高木の打力も惜しい。そこで、3年目の1998年は開幕から指名打者で起用された。その後、守備に難のあるドミンゴ・マルティネスを指名打者にすることになり、東尾監督が高木に一塁へのコンバートを打診。チームは外野へのコンバートも考えていたが、守備負担の少ない一塁にすることで、より打力を発揮してもらおうと考えたのだ。 悩んだ末にコンバートを受け入れた高木は、シーズン途中から一塁手として定着。打撃も上向き、シーズンを通して主に三番を担うこととなった。結果的にこの年は130試合に出場して打率.295、7本塁打、64打点をマーク。一時は四番も任され、最大10ゲーム差を逆転しての劇的なリーグ制覇に貢献した。