Yahoo!ニュース

IDでもっと便利に新規取得

ログイン

越前の雄・朝倉義景とその一族【にっぽん歴史夜話】

配信

  • この記事についてツイート
  • この記事についてシェア
サライ.jp

朝倉義景と信長の共通点

朝倉義景は父の死により、16歳で家督を継ぐ。当初は延景と名のっていたが、4年後、13代将軍・足利義輝(当時は義藤)から一字をたまわり、義景と改名した。目上の者から一字をいただく場合、諱(いみな。正式な名)のうち下の文字であることがふつう。たとえば、独眼竜・伊達政宗の父も義輝から一字をたまわっているが、名は「輝宗」である。この場合、「義」の字をさずけられたことからして、いかに朝倉氏が幕府から重んじられていたかが分かる。じっさい、義景の治世初期には名将・宗滴も健在で、越前は安定した政情と財力にめぐまれた大国だった。義景は文化人としての資質に富んでいたらしく、いくつもの秀歌をのこしている。また、京から招いた公家たちと、奈良・平安の世に盛んだった「曲水の宴」という催しをおこなうなど、古式に心をよせていた。 ちなみに、義景は織田信長よりひとつ年上にすぎず、完全に同世代といってよい。父の死によって、10代で家督を継いだところも似かよっている。付けくわえれば、斯波氏の家臣筋であるという点まで共通。それでいて、ふたりの生涯は結局おおきな隔たりを見せることとなった。 明暗が分かれたのは、15代将軍となった足利義昭への対応をめぐってということになるだろう。1565年、将軍義輝が家臣である三好・松永一党に襲撃され、落命する。出家していた弟の義昭はかろうじて逃れ、越前へ身を寄せた。将軍位をのぞむ義昭は、さかんに上洛をうながしたものの、義景は動こうとしない。一向一揆に悩まされていたこともあるが、おそらく彼に天下への野心はなく、領国が安泰ならそれでよいと考えていたのだろう。しびれを切らした義昭は越前をはなれ、織田家へ迎えられた。この仲立ちをしたのが、当時朝倉家へ身を寄せていた明智光秀だったとされる。

義景は暗君だったのか

まさに対照的というべきだが、日をおかず都へのぼった信長は義昭を将軍位につけ、朝倉家にも上洛を呼びかける。が、義景はこれにしたがわなかった。さきに記したごとく、織田も斯波氏の家臣筋だが、朝倉よりいちだん低い陪臣(家来の家来)の家柄である。古式への傾倒ぶりからみて、義景は伝統を重んじるタイプの人物だったろう。家格がひくい信長の下風に立つことは考えられなかったのではないか。 いずれにせよ、これを境に朝倉は敵とみなされることになる。1570年、織田方は討伐の兵を挙げ、金ヶ崎(敦賀市)などの城を落とす快進撃を見せた。が、信長の妹・お市を妻とする近江(滋賀県)の浅井長政が裏切ったため、撤退を余儀なくされる。浅井氏は祖父の代から朝倉の同盟者であり、義景と信長の板挟みとなったかたちだった。このときは長政のおかげで救われたが、以降の展開からして、義景は信長への対処をあやまったというほかない。 じっさい、目立った失政もないから暗君という評価は辛いとしても、彼が将器にとぼしかったことはたしかである。そもそも、いくさ自体に消極的だったと思われる痕跡がいくつも見いだせ、有名な姉川の戦い(金ヶ崎の戦いから2か月後。織田・徳川軍と朝倉・浅井軍の決戦)でも、自身は参戦せず、一族の者を派遣している。このいくさは朝倉・浅井方の大敗に終わり、以後、形勢ははっきり織田方へかたむいた。義景がいれば逆転したとはいえぬものの、国主の不在が越前勢の戦意に影響しただろうことは容易に想像がつく。 また、1572年には甲斐(山梨県)の武田信玄とむすんで信長を包囲する策に出るが、長滞陣に耐え切れなくなったのか、武田方の到着を待たず兵を退いてしまう。信玄も信じがたい思いであったらしく、「帰国の由、驚き入り候」と、失望と怒りをあらわにした書状を義景へ送っている。 1573年、信長は朝倉氏にとどめをさすべく軍をすすめる。このとき義景はみずから出陣したものの、織田方の勢いに抗せず、はやばやと敗走した。最後は一族の裏切りにより、追いつめられ自刃。戦国大名・朝倉氏は、5代100年でその命脈を絶たれた。 前述のように、義景が文化的素養にめぐまれていたことは事実である。また、彼が子や側室を亡くしたおりの悲嘆が記録されているが、あえて書き残すくらいだから、周囲がおどろくほどの嘆きようだったのだろう。これらを考えあわせると、風雅を愛する温良な人物という像が浮かびあがってくる。今そばにいれば、心たのしく付きあえるような相手だったのではないか。泰平の世ならば大過なく国をたもったろうが、乱世へ生を享けたばかりに、自身と一族を滅亡の淵へ追いやることとなった。まこと無残というほかはない。彼の生涯を振りかえって感じるのは、ひとは生まれるときを選べないという、あらがいがたい真理なのである。 文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう) 小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

サライ.jp

【関連記事】