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越前の雄・朝倉義景とその一族【にっぽん歴史夜話】

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サライ.jp

文/砂原浩太朗(小説家) 武田信玄や上杉謙信にはおよばぬだろうが、越前(福井県)の戦国大名・朝倉義景(1533~73)の名も、意外に知られているのではないか。織田信長をあつかった小説やドラマには、かなりの頻度で登場している。ただし、彼自身が大きく取りあげられた例はすくなく、たいていは信長に敗れ去った武将のひとりという扱い。だが、朝倉氏は戦国大名のはしりとして、ほぼ100年にわたって越前を統治した大族である。ただのやられ役であるわけもない。本稿では、信長の影に埋もれがちだった朝倉義景とその一族に、いまいちど光を当てたい。

戦国大名・朝倉氏の誕生

朝倉氏はもと但馬(兵庫県)を本拠とする一族だったが、南北朝の動乱に際し足利方へつく。斯波(しば)氏の配下として新田義貞を破るなどの軍功を挙げ、越前に所領をあたえられた。斯波家は尾張(愛知県)・遠江(静岡県)・越前3か国の守護として室町幕府で重きをなしたが、15世紀のなかば、家督相続をめぐって内紛をおこす。これが応仁の乱(1467~77)の一因となった。このいくさで武名をあげた朝倉孝景(1428~81)が主家を押しのけ、越前の実質的な国主となる。ここに戦国大名としての朝倉氏が誕生した。 彼の家訓とされる「朝倉孝景条々」(異称あり)が残っているが、「家柄でなく、その者の能力によって人材を登用せよ」「名刀に心を寄せてはならぬ。実戦では槍にかなわない」「家臣は城下に住まわせ、領地に城を築かせてはならない」など、きわめて合理的な精神に貫かれたもの。じつは後代の作という説も有力だが、下剋上の実践者として、孝景の風貌を髣髴とさせるのはたしかである。なお、朝倉氏の城下として有名な一乗谷(福井市)は彼が築いたものとされていたが、近年の研究では、すくなくとも数十年さかのぼることが明らかとなっている。

猛将・朝倉宗滴

義景以前の朝倉一族で知られているのは、孝景とその末子にあたる猛将・宗滴(そうてき。1474~1555)だろう。若いころ家督の継承をもくろみ、謀反に加担したこともあるが、土壇場で寝返ったのちは、終生宗家をささえる立場をくずさなかった。自国や隣国・加賀(石川県)の一向一揆と死闘を繰り広げるなど、生涯をいくさ場で過ごしたつわもので、名将として同時代の評価もたかい。彼もまた「朝倉宗滴話記」と称する談話をのこしており、城の攻め方、軍馬の飼い方、諜報戦の重要さなど、戦国武士の心得が具体的かつ詳細に述べられている。なかでも名高いのは、「武者というものは、犬と呼ばれようが畜生と呼ばれようが、勝つことが本分である」という一条。すさまじい覚悟というべきだが、これほどの人物が幕下にいたことは朝倉氏の幸運であったろう。むろん、宗滴ひとりの功績であるはずもないが、越前は戦国の世にあって、比較的安定した治世をたもったまま、孝景から5代目となる義景へ継承されたのである。

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