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【ラグビー】セルジョ・パリッセ(イタリア代表キャップ142)、友と「人生を語る」vol.1

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ラグビーリパブリック(ラグビーマガジン)

 4月中旬、アルゼンチンの『Club Universitario de La Plata』が公式SNSでイタリア代表として142キャップを持つセルジョ・パリッセのインタビューを公開した。 『イル・カピターノ/Il Capitano』(キャプテン)として長年チームの先頭に立ってきたパリッセは、幼少期から高校時代までをアルゼンチンで過ごした。  イタリア代表、青ジャージーの印象が強いが、実はブエノスアイレス州の州都ラ・プラータ生まれ。父の仕事のため、同地で産ぶ声をあげた。  イタリア人の両親のもと、家ではイタリア語を話し、学校ではスペイン語を使っていたという。クラブやアルゼンチンの年代別選抜では、のちにロス・プーマス(アルゼンチン代表)として活躍する選手たちともピッチに立っていた。  高校卒業後、単身イタリアに渡り、プロのキャリアをスタートさせたパリッセ。今回は、出身クラブのインタビューを通して、過去と現在、そして混沌の先の未来について語っている。 ※インタビュアーはパリッセの元チームメイトで現ULPトップチームのFL兼中学部門統括のJernimo Almeida。 ーー時間ぴったりだね。 「1分遅れたけど、アルゼンチンならぴったりのうちかな」 ーーいろいろ大変だろうが、現状について教えて。 「みんなと一緒だよ。いま(4月中旬)はトゥーロンにいるからフランス政府の指示に従っている。家で家族と過ごし、外出はスーパーとか薬局とか、最小限にとどめているよ。もちろんマスクと手袋をつけてね。イタリアは深刻な状況だし、できるだけ早くこのウイルスの波が過ぎ去るように、一人の市民としての責任を果たせるよう生活している」 ーーアルゼンチンでも、珍しく、皆が政府の指示に従い、感染をある程度コントロールできているよ。 「高校時代の友人と話した。イタリアほど感染は広がっていなくても、しっかり警戒しているみたいで安心したよ」 ーーここULP(アルゼンチン3部、Club Universitario de La Plataの頭文字で通称ULP)時代のことを話してくれる? 「体が大きかったから15歳まではいつも1学年か2学年上のグレードでプレーしていたなあ」 ーー当時のコーチ、練習で記憶に残っているものは? 「コーチを挙げるなら、名前を出さなかったコーチからなにか言われそう…。現在の僕がFWの中でも器用にプレーできているのは、19時半からのラグビーの練習の前にみんなで17時くらいに集まり、サッカーやバスケ、テニスをしていたのも理由だと思う。アルゼンチンは、クラブの中にいろんなスポーツがあるからいい。週末にはみんなで集まってアサード(アルゼンチン流BBQ)もした。14歳の時のサンタフェ遠征の道中、バスが壊れて動かなくなったのもいい想い出。他にも何回かバスの故障で帰れなくなったことがあったような。いまのような通信手段もなかったから、いつになるかわからない次の便を待っていたね。もちろん困ったけど、チームメートと一緒に、ふざけ合って待ったのはいい想い出だよ」 ーートップチームでの最初の試合は覚えてる? 「もう20年も前だからなあ。たぶん、アウェーのラ・プラタリーグの試合だったと思う」 ーー正解! 当時、代表からの声はかかっていたの? 「17歳の時にイタリアの19歳以下代表としてチリでの世界大会に行った。アルゼンチンに帰ってきた直後には、18歳以下ブエノスアイレス代表からも声がかかったよ。当時はマルコス・アジェルサ(のちにアルゼンチン代表PR)などがいた」 ーーその後、プロとしてのキャリアをイタリアで始めたね。 「2001年、ブエノスアイレスの高校を卒業して、すぐイタリアに渡った。12月の10日ごろに卒業式だった。その年のクリスマスと正月はトレヴィーゾで一人ぼっちで迎えたのを覚えているよ。当時は、というか現在もほぼ同じだけど、僕みたいな17歳、18歳の若い選手が、寮をはじめとしたサポートを受けながらプレーできるクラブはベネトンのあるトレヴィーゾだけだった。両親も18歳の息子を一人でイタリアに送るのはやっぱり不安だったみたいで、ベネトンなら少し安心できる様子だった」 ーーベネトンではリーグ優勝2回と、コパイタリアのタイトルも1回獲ったね。その頃、すぐにイタリア代表に呼ばれた。 「イタリアに渡った最初のシーズンから代表で試合に出してもらった。当時の代表コーチはジョン・カーワンで、18歳の僕をツアーに連れて行ってくれた。2002年6月のニュージーランド戦がデビュー戦。信じられないことだったよ」 ーー相手にはどんな選手がいたの? 「スタジアムに入ってベンチに座ると、隣にはジョナ・ロムーが座っていた。絶対にタックルしたくないと思ったね」 ーーその後もベネトンでプレーを続け、2003年のW杯メンバーに選ばれた。初めてのW杯で緊張したと思うけど、どんな準備をして挑んだ? 「20歳になったばかりで若かったし、大会中は日々をこなすことに精一杯だった。当時はW杯がどれだけすごいものか、20歳でそれを経験できることの重大さも気づいてなかった。ことの重さを理解したのはあとになってからだった。20歳でW杯に出たこと、いまさらながら驚くよ。当時、肉体的にもトップレベルになかった僕を信頼し、成長の機会を与えてくれたカーワンは恩人の一人。テストマッチでの経験があるから、選手としてより早く成熟できたと思う」 ーー2004年、シックスネーションズも20歳のうちにデビューした。 「W杯と同じことを感じた。人生はすべてそうかもしれないけど、現在進行形でそれを経験しているときは、それがどんな意味を持つのか全然わからない。ただ、若くして大きな大会を経験させてもらったことで、一つひとつ全力でやることが僕にできることだと分かった。それを続けると、のちに振り返った時に後悔がない。年齢を重ね、そう気がついたんだ。怪我もあったけど、キャリアを長く続けられたのもそのマインドのおかげ」 ーー引退するみたいな話し方だね。やめてくれよ。 「まだしないさ。たぶん…」 ーーW杯とシックスネーションズの活躍で、スタッド・フランセから声がかかった。 「2004年に最初のシックスネーションズに出た。3試合に出場して1試合目が対イングランドで、2試合目がフランス戦だった。その試合を、当時のスタッド・フランセの会長が観ていて、すぐにオファーを出してくれたんだ。パリには憧れもあった。それを知ったときは有頂天だったね。ベネトンとの契約が1年残っていたけど、違約金を支払う用意もすぐにしてくれていたんだ。  だけど3試合目のスコットランド戦、確か後半の終わりに逆転して勝った(20-14)とき、ケガをしたんだ。ジャッカルに入った際、横からオーバーに来た相手が入り、膝の靭帯を痛めた。復帰まで半年以上かかる大ケガだったから、慣れたイタリアで手術し、リハビリに取り組みたいとスタッドフランセに伝えたよ。ケガの大きさも想像できなかったし、同じレベルに復帰できるかも不安だった。すぐにフランスに行く決断はできなかった。その後、幸運にも手術は成功し、リハビリもうまくいった。そのシーズンはトレヴィーゾで過ごし、2005年にパリに渡った」 ーー当時のステッドフランセにはどんな選手がいた? 「アルゼンチン人がたくさんいたね。SHには、いま(ワールドラグビーの会長選に出ている)話題のアグスティン・ピチョットがいた。フランス人に、アルゼンチン人が数人と、オーストラリアと南アフリカからも2、3人来ていた。戦力的にもかなりいいチームで、僕が加入した翌年の2006/2007シーズンには優勝したんだ」 ーーフランスもラグビーに情熱的な国。初優勝の熱狂はすごかった? 「うん。フランス人のラグビーへの情熱はかなりのものだからね。もちろんサッカーが人気だけど、ラグビーも文化の一部としてしっかり定着している。特に南仏はラグビー人気が高い。パリも大都市で、人々の興味を引くものはたくさんあるのだけど、当時の会長がマーケティングに力を入れたこともあって、8万観衆のスタジアムでプレーする機会が何度もあった」 ◆以下、Vo.2に続く。

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