東京五輪「頭ごなしの否定論」に疑問、コロナ禍だからこそ開催すべき理由
● 「オリンピックを開催しよう」は非常識にすべきなのか? 東京オリンピックを「どうすれば安全に開催できるか」「どんな対策を取れば都民・国民は開催を歓迎できるか」。これをみんなで議論することは重要だと考える。 ところが、「議論の余地などない」「緊急事態宣言の中、オリンピックが開けると思うか!」「あり得ない」といった強硬な主張が、まるで正論のように語られる風潮が高まっている。背景には、「実施」を一方的に主張し続ける政府や東京都、組織委員会が十分な説明をせず、ただ実施を強弁する姿勢への反発と不満があるからではないか。 「人類がコロナウイルスに打ち勝った証しとして東京オリンピックを開催する」 安倍晋三前首相が使って以来、繰り返し語られるフレーズも、国民の共感を得られていない。それなのに、菅義偉首相もこの言葉を継承し、先の施政方針演説でも使った。そのたびに、多くの国民は、「まだ打ち勝っていないのに」と突っ込みを入れ、「夏までに打ち勝てる見込みはないだろ」と白けた気持ちを募らせる。そして、政府が国民感情と乖離している現実ばかりを知らされる。そうやって、オリンピック開催への反発がむしろ高まる流れができてしまった。 「マスクなど不要だ」という主張は、いま日本社会では「ありえない暴論」という認識が常識になっている。同様に、「オリンピックは開くべきではない」という論もまた「常識」にすべきだろうか?「それでもオリンピックを開催しよう」と提言することは、本当にマスクを外すくらい横暴な非常識なのだろうか?
● なぜ政府は東京五輪開催に強い意志を持つのか 感情的に「反対!」を叫ぶ声と、対照的に「実施」に向けて動き続ける政府や東京都が対立し合うだけで、融合する機会を持たず平行線の状況は、単にオリンピックの問題に限らない。ここ数年の日本社会を象徴しているように感じる。モリカケ問題をはじめとする数々の疑惑について、為政者側はまったく誠実な説明や対応をしない。これを糾弾する国民の声が勢いを増しても無視され、状況は変わらない。 こうした構造と同じ乖離が、東京オリンピック開催についても起こっている。だからこそ、不毛な分断を止め、国民の思いが健全に醸成され、共感を導ける社会に変えるためにも、オリンピックの議論は重要だ。 なぜ政府はそれほどまで東京オリンピック開催に強い意志を持ち続けるのか?納得のいくメッセージが政府から国民には届いていない。だから国民そしてメディアは、「きっとお金のためだ」「やめられない事情があって、やめれば自分たちの首を絞めるような事態になるのではないか」などと邪推する。それはあながち的外れではないかもしれないが、私はスポーツライターとして、「スポーツの不在」を強く憂い、それを問いかけたい。 ● スポーツのための東京五輪ではなかった 昨年3月、IOCのバッハ会長と安倍首相(当時)の電話会談で突然「延期」が決まったが、その席に、スポーツ界を代表して立ち会うべきJOC(日本オリンピック委員会)の山下泰裕会長がいなかった。それは大きなショックだった。今回の東京オリンピックが、完全に政府主導で行われ、スポーツ界の主体性など存在しない現実があらわになったのだ。そのことには私も大きな失望と不満を感じている。 つまり、東京五輪は、スポーツのため、スポーツ界が主体性を持って招致したものではなかった。政財界や一部の権力者の思惑のため利用された側面が大きい。それは否定できない。だが、だからといって、コロナ禍に乗じて「やめちまえ」と叫ぶのもまたスポーツを度外視した、行き過ぎた飛躍ではないだろうか。