発案はデロリアン! ポンティアックGTO(1) 「元祖」マッスルカー スポーティでヨーロピアン
中型クーペのテンペストにビッグブロック
美容整形手術を受け、スポーツカー・メーカーの工場を北アイルランドへ竣工させ、コカインの密輸疑惑で逮捕されるより遥か以前、ジョン・デロリアン氏は、ゼネラル・モーターズ(GM)にいた。ポンティアック部門の、主任技術者として。 【写真】元祖マッスルカー:ポンティアックGTO 元祖ポニーカーとスーパーカー マスタングとミウラも (109枚) 彼の才能は確かなものといえ、同時に若者文化へ敏感だった。ホットロッド・カスタムやドラッグレースの人気を目の当たりにし、安価な高性能モデルを提供すれば、GMへヒットを導けると考えた。 1962年に、ポンティアックは2ドアのカタリナ・スーパーデューティ421を少量生産。スーパーストック・クラスのドラッグレースを想定し、軽量なアルミニウム製フェンダーやボンネット、穴開き加工されたフレームなどが与えられていたが、高価だった。 デロリアンが目をつけたのは、北米では中型の扱いだった、ポンティアック・テンペスト・ルマンというクーペ。326cu.in(5342cc)のV型8気筒エンジンを、フルサイズ用の389cu.in(6374cc)へ置き換えるというアイデアが実行された。 その頃のポンティアックのV8ユニットは、排気量に関わらず、エンジンブロックの外寸が同じだった。変更を加えず、テンペストのエンジンルームへ収めることができた。
スポーティでヨーロピアンなイメージ
かくして、1964年仕様として誕生したのが、ポンティアック・テンペスト・ルマン GTO。デロリアンは、フェラーリ250 GTOに影響を受けた車名ではないと説明している。だが、スポーティでヨーロピアンなイメージは狙っていたという。 ボディサイドのエンブレムへ刻まれるエンジンの排気量も、北米式の389cu.inではなく、6.5Litre。これに関して、デロリアンや関係者の意向を筆者は知らないが、欧州車を意識したものだろう。 当時のGMは、ミディアムクラスのモデルへ、330cu.in(5407cc)以上を載せない方針を掲げていた。エンジンをオプション設定とすることで、デロリアンはこの課題をかわしている。 1台目が工場をラインオフしたのは、1963年9月3日。営業部門は、初年度に5000台の販売を見込んでいたが、これは低すぎる設定だった。1964年度に売れたのは、3万2450台。生産は追いつかない状態だった。 世界初の「マッスルカー」誕生に、他メーカーは焦燥感を抱いたに違いない。クライスラーのプリマスやダッジだけでなく、同じGM内のブランドからも、ライバルに相当するモデルが追加された。 今回ご登場願ったレッドのGTO コンバーチブルも、1964年式。筆者は大のマッスルカー・ファンだが、生産初期のモデルと対面したのはこれが初めて。マッスルカー誕生60周年を祝うのに、この年式は外せないだろう。