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ドラ1で鳴かず飛ばずも…トレードで覚醒した長髪の「荒れ球右腕」とは

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週刊ベースボールONLINE

東尾監督から授かった「金言」

 プロ野球の世界に入るのは至難の業だ。ごく一握りの選手しか入れない中で、ドラフト1位で入団できるのは12人のみとさらに狭き門になる。ただ、華々しく注目を浴びて入団するドラフト1位の選手たちも活躍できる保証はない。1勝もできず、1安打も打てず、一軍出場のないままユニフォームを脱ぐ選手もいる。その中で、ドラフト1位で入団したが結果を出せずに崖っぷちまで追い込まれたが、トレードによって大輪の花を咲かせた選手がいる。大洋(現DeNA)、西武、中日でプレーしたデニー友利だ。 【ドラフト会議物語24】注目の享栄高・近藤は中日に。西崎、阿波野も1位入団【1986年】  沖縄出身のデニーは身長191センチの長身からオーバースローで投げ下ろす本格派右腕として県下で名を轟かせていた。興南高では後に大洋でもバッテリーを組む名幸一明(現NPB公式審判員)とのコンビで有名だったが、絶対的エースだったわけではない。当時は体の線が細かったため、完成度も高くなかった。3年夏の県大会決勝・沖縄水産戦は登板せずに敗退。それでも潜在能力の高さは高校球界指折りだったため、去就が注目される。1986年のドラフトで阿波野秀幸(現中日一軍投手コーチ)の外れ1位で指名されて大洋に入団した。

 高卒プロ1年目でプロ初登板初先発デビューを飾るなど将来のエースとして期待されたが、課題の制球難に悩まされる。2年目からの4年間は一軍登板なしで、一時は任意引退の手続きを取り、支配下登録を外れた練習生に。事実上の戦力外だったが、サイドスローに投球フォームを改造したことで状況が好転する。本名の友利結からデニー友利に登録名を変更した95年にプロ初勝利をマーク。そして、96年オフに運命が大きく変わる。当時の西武・東尾修監督が実力を評価し、デニー本人もトレードを志願したことから、長見賢司との交換トレードで西武に移籍。心機一転、登録名をデニーに再び変更して再スタートを切った。  環境次第で選手は大きく変わる。同じ右のサイドスローで鹿取義隆、潮崎哲也という良きお手本から助言を受けたことが大きなプラスアルファに。大洋・横浜時代は指導者からの細かい指導で暗中模索の日々だったが、東尾監督から「せっかく150キロぐらい出るボールがあるんだから真ん中を目がけて投げろ。そしたらどこかストライクゾーンには行くからフォアボールはないだろ」と金言を授かったことも心の支えになった。サイドハンドから150キロを超える荒れ球に打者の腰が引け、内角を果敢に突く。外国人に威嚇されても一歩も引かない。長髪を振り乱して腕を思い切り振り続ける姿は、精神面の弱さを指摘されていた横浜時代とは別人だった。 「特に忘れられないのが移籍後初勝利を飾った8月14日のダイエー戦(福岡ドーム)。2対2の同点で迎えた9回、しかも打順は大道典良、小久保裕紀、城島健司のクリーンアップ。横浜ではコントロールが悪いというレッテルがあるから、チーム事情から抑えていても誰かの調子が上がれば二軍に落ちたり、敗戦処理が中心の“便利屋”扱いでした。だからこそ、同点の場面で出してくれて、初めて必要とされているというか、自分の居場所があると思えましたね。ベンチの期待がうれしくて、プレッシャーなど感じなかった。結局三者凡退に抑えて、延長10回に高木大成が決勝打を放ち運良く勝ち星がついた。そこから一気に勢いがつきました」とデニーは後に語っている。

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