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『部屋とYシャツと私』歌手、平松愛理。20代、ぺしゃんこになっても諦めなかった夢

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『部屋とYシャツと私』歌手、平松愛理。20代、ぺしゃんこになっても諦めなかった夢

1992年、結婚を控えた女性のリアルな心情を歌った自曲『部屋とYシャツと私』がラジオや有線放送で話題になり、ヒットチャートを揺るがした平松愛理。デビューからわずか3年でのブレイク。一見、順風満帆な印象だが、実はその活躍の裏で悩み苦しんだ時期もあったという。上京後、訳あっての貧乏生活を経て、結婚、離婚、そして育児。実家が全壊した阪神淡路大震災の記憶――。平成の始まりとともにデビューして30年が経ち、令和の活動へとたくましく舵を切る平松の今を聞いた。 最初のデビューは白紙に。 でも絶対、夢は諦めなかった 地元・神戸での音楽活動中に、東京にあるレコード会社からのソロデビューが決まった平松愛理。自作の曲でデビューする話だったはずが、いざ上京してみると「あなたは歌うだけだから」と、用意された曲でデビューする話にすり替わっていた。 「東京は全国区のものをつくっている街だから、ハードルが高いのかな」。そう思ったこともあったが、自身で曲をつくるのが当たり前になっていた平松にとって、目の前のデビュー計画はとても違和感のあるものだった。結局、そのレコード会社から約束されていた裕福な暮らしを手放し、自らの力であらためてソロデビューを目指すべく、貧乏生活に身を投じた。 地元へ戻ろうとは思わなかった。このままでは帰れない。かといって、それまでつくってきたデモテープをそのまま、あたらしいレコード会社に持ち込む気はなかった。 「関西では、感覚的な言葉で大抵のことを伝えられるんです。『めっちゃええ感じやわ』『ほんまに~』とか。そういうファジーな言葉に慣れている土地柄なんですね。でも東京で何かをプレゼンするときに必要なのは、根拠になる言葉、つまりコンセプト。“平松愛理”がつくる曲がこの世に存在すべき理由はあるのか。東京で勝負するなら、それを相手にわかってもらえるよう筋を通しておかないといけない。何を問われても応えられる自分をつくらなければならない、そう気づいたんです」 神戸で活動をしていた頃とは違う闘い方を覚えた平松は、曲の「見せ方」を重視することにした。曲のどこをどう聴いてもらいたいのか。どうアレンジするのか。それからは打ち込み機材を購入、ギター、ベース、ドラムなど各楽器のパートをすべて自ら譜面に起こし、曲づくりをひとりで進めた。 「神戸でバンド活動していた頃は、メンバーに『こんな風にアレンジしたい』と口で伝えたら、それをそのまま楽器で弾いて音にしてくれた。でも上京したらメンバーはいないわけだから、すべて自分でやる必要があったんです。自分で弾いても感じが出ない部分だけは、東京でできたミュージシャン友だちに弾いてもらいました。『ごはんつくってあげるから、代わりにちょっとギターソロ弾きにきてくれない?』なんて交換条件を出して」 当初デビューが決まっていたレコード会社に「やめます」と伝えてから一つの季節が巡り、少し涼しくなってきた頃。自分の目指すものを一生懸命追いかけているうち、同じように音楽の夢を追う人々が周りに集まってきた。当時住んでいた幡ヶ谷のアパートの小さな部屋で、仲間と夜な夜な夢を語り合った。 そうしてますますモチベーションを高めた平松は、週に必ず2曲は宅録することを自分に課していた。その多くは新曲だったが、ときには既存曲を再アレンジすることもあった。 「レコード会社にデモテープを持ち込んでも、なかなかまともに聴いてもらえない。相手がデモテープ再生中にイヤホンを片方はずして、別の誰かと喋っているなんて、日常茶飯事。ところがある日、『いい曲を書けるようになったね』って。そう言われたのは、以前持ち込んだ曲を、包み紙を変えるように、全然違うアレンジにしてみたものでした。そのときわかったのは、伝えたいことをどう伝えるのかを突き詰め、ピュアに表現した作品が強いということ。アレンジも含めて、オンリーワンの作品を常に目指さなきゃいけないんだって思ったんです」 あらためて念願のソロデビューが決まり、そのレコード会社へ打ち合わせに行くと、フロアにいたその場の全員が「よかったね、おめでとう」と立ち上がって祝福をしてくれた。 採用された自作の曲をレコーディングし、1989年2月21日、ついに念願のソロデビューを果たした。平松愛理の名を世に轟かせることとなる『部屋とYシャツと私』は、デビュー翌年にリリースした3rdアルバム『MY DEAR』に収録された。 名曲『部屋とYシャツと私』 今、続きを書いたわけ 『部屋とYシャツと私』は、平松が女友だちのためにつくった曲だった。 「愛理ちゃん、私の結婚式で歌って」。そう頼まれた平松は、せっかくならとその友人のために引き受けた。「結婚したことないのに曲つくれるかな?」。そう思いつつもリサーチをし、一番は自身の両親の話、二番はディレクターの話、結婚している周りの人たちの話を聞きながら歌詞を書き進めた。 「実際に披露宴で歌ったら、新婦側はすごく盛りあがったけど、新郎側はドン引き。私は結婚したことがなかったから、結婚ってこんな感じなんだ?って思いました。浮気したら毒入りスープ飲ませる、なんて言われたら引くわけ?新郎側の親戚は『うちの甥っ子は、結婚しても浮気するに決まってるじゃん』とか思ってるのかなぁ…って」 スタッフの半数以上がこの曲を「平松らしくない」と、アルバム『MY DEAR』に収録することを反対した。それでも平松は「1曲くらい、変わった曲があってもいいじゃないか」と主張し続け、ギリギリで収録が決まった。 「アルバムのプロモーションで全国をまわっても、誰も『部屋とYシャツと私』についてインタビューをしてくれない。一人だけ言及してくれて、『三拍子の曲ですね』って(笑)。『長い』『三拍子でゆっくり』『タイアップなし』っていう、ヒットの条件からはまったく外れた状態でしたね」 ところが有線放送でかかるや否や、「あの曲は一体何?」と、リクエストがリクエストを呼び、『部屋とYシャツと私』の知名度はどんどんあがっていった。 すでに次のシングル発売に向けてレコーディングをしていた頃。当初アルバム収録を反対していたスタッフたちが、「『部屋とYシャツと私』をシングルカットにして発売しましょう」と手のひらを返してきたそうだ。 当時は結婚を経験していなかった平松も、結婚、そして離婚を経て、2019年夏に『部屋とYシャツと私~あれから~』をリリースした。 「『部屋とYシャツと私』の続編をつくったのは、もうこれ以上後にはつくれないと思ったから。最近よく同窓会に参加しているんですけど、ちょうど今、みんな新たな体験をしているんですよね。子供が就職したり、結婚したり、孫が生まれたり、あとは両親の介護や、同居とか。ライフイベントが重なるとき。これがさらに5年経つと、またずいぶん状況が変わってきてしまう。自分も活動30周年で、平成から令和になるという大きな節目で、ここで覚悟してつくろうと思ったんです」 原曲がアルバム『MY DEAR』に収録されたときから数えると29年、シングルカットされてからは27年が経った。夫婦というものは、いろんな困難を乗り越えながら、最後はふたりきりになる。自身の両親のことを見ていても、「ふたりは少しずつ、“夫婦”という名の家族になってきたんだな」と感じるという。 「最初はふたりでひとつの生活サイクルだったのが、子どもができたりして、どちらかのサイクルに変化があったりすると、ふたりでひとつではなくなってくる。それって悪いことじゃなくて、そのうえで上手に関係をたもつためには、辻褄を合わせていくことも大切です。歌詞の中にも出てきますけど、たとえば夫婦別室。長く一緒に暮らしていくための、ハッピーな方法のひとつだと思います。夫婦別室で仲良しのご夫婦、多いですからね」 転機となった出産 「子どもは創造性の塊」 『部屋とYシャツと私』をリリースした当時は独身だった平松も、1994年に結婚した。しかし自身にとっての転機は、結婚よりも出産にあったという。命がけの出産。彼女は子宮内膜症だった上、前置胎盤(妊娠中に胎盤が正常より低い位置に付着し、そのために胎盤が子宮の出口を覆っている状態)にもなっていた。「母子ともに生存の確率が」「とにかく動くな、歯も磨くな」…そんなことを言われながら、帝王切開でなんとか女の子を出産した。 「オギャーって声が聞こえたと同時に思ったのが、『あ、わたしたち生きてる~!』ってことでした」。平松は小柄で、筋力もなかった。とにかくボロボロだった。それでも、出産をして仕事をすぐに再開した。 「きつかったです。きつかったなぁ。でも、だんだん体力が回復してきて、娘と出歩くようになると、あたらしい目線を知れたんです。子どもってすごく低いところに目線がありますよね。野に咲く花を同じ目線で見あげてみたら、『うわぁ、空がおっきい』って思う。あと、車の中から建設中のビルがどんどん高くなっていくのを見た娘が言ったんです、『ビルくん! 大きくなっておめでとう!』って。クリエイティビティの塊なんですよね。パジャマのボタンをひとつずれたまま留めていても、本人はちゃんと留められてると思ってる。上出来って誇らしげ。本人が納得していることだから、あんまり直さなかったですね」 子どもの豊かな想像力は、平松のアーティストとしての感性をずいぶん刺激したという。そんな娘も成人を迎え、自らの人生のために夢を追いかけ始めた。 「大人になってからは、ちょっと離れたところから見守ってきた感じです。好きなことを好きにやりなさい、ってあんまり全面的に応援しすぎるのもね。自分で自分の道をつくって歩むしんどさを知って、それでもやるのかっていう。子育てって急にパッと離れるんじゃなくて、徐々に離れていくんですよね。だからまだ終わったって感じもないし、ずっとこの感じが続くんだろうなって」 「歌で神戸を励まして」 25年続けた復興支援ライブ 1995年1月。全国ツアー中にインフルエンザに罹った平松は、開業医である父に診てもらうべく地元・神戸へ向かっていた。羽田を経由し伊丹空港へ、と思っていたものの、羽田に着いた時点で体力的に限界がきて、そのまま世田谷の自宅へと戻った。そしてずっと眠っていた。 高熱が落ち着いて目をさますと、テレビの中で、神戸の街が変わり果てた姿になっていた。阪神淡路大震災が起きたのだ。 「神戸にようやく入れたのが、たしか2月くらい。車では中心地まで行けなくて、途中からはスニーカーを履いて徒歩で市役所へ向かいましたね。市役所では、貯金の一部を市の職員さんに直接渡しました。神戸のためにとにかく何かしたくて。その後、変わり果てた街を見ながら歩いていたら、ボランティアの方から『平松さんは、歌で神戸を励ましてください』って言われたんですね。私としても、たしかに音楽でやっていくしかないなと思って」 1997年。平松は復興支援ライブ「KOBE MEETING」を始めた。収益金は震災・交通遺児支援施設「神戸レインボーハウス」へ寄付してきた。 「この活動を誰のためにするかって考えたとき、次世代を担う子どもたちの役に立つような収益金をつくりたいと思ったんです。災害が起きたとき、大人は自分で今後のことを選択できるけど、子どもは大人ほど自分で選べないだろうから。毎年テーマとなるメッセージを決めて、それを音楽を通じて伝える会にしようと決めました」 使命感で始めた活動だったが、その思いだけで続けるのは難しかった。活動に賛成する声もあれば、同時に「もう震災を忘れたいんだ」という強い反対の声もあった。「私が続けることで、人の傷に塩を揉み込んでいるのかもしれない」。矛盾した気持ちと闘い続け、葛藤し続けた。 大規模な自然災害はここ数年特に、急激に増加している。「KOBE MEETING」は神戸のために始まったが、徐々に寄付先を増やしていった。東日本大震災以降は「東北レインボーハウス」、2017年には熊本市の文化ホールの機能を早期復旧するための「くまもとエンタメ支援金」にも寄付された。 2020年1月に開催される25回目の「KOBE MEETING」。これをもって、最後の開催となる。「考えに考えた結果、神戸に限らずもっといろんなところで歌を届ける、新たな活動のスタートラインに立ちたいと思ったんです」。平成元年にデビューし、令和を迎えてあたらしい動きを見せる。平松の活動の節目は、時代の節目に不思議と重なる。 「この瞬間、自分がワクワクしたりドキドキしたり、心から楽しめているかどうか。そんな充実した“今”をこれからも積み重ねていきたいと思っています。ステージ上でも、レコーディングした曲でも、自分自身が常に心から楽しんでいれば、相手にもきっと気持ちが伝わる。音楽にかかわらず、誰かに思いを伝えるために大切なことだと思います。ときについ何かを期待したり、思い通りにいかなかったりしてもいい。すべてを肯定して、楽しんでいきたいんです」 平松愛理 Eri Hiramatsu 1964年生まれ、兵庫県出身。シンガーソングライター。1989年、アルバム『TREASURE』、シングル『青春のアルバム』でデビュー。1992年、シングル『部屋とYシャツと私』が大ヒットし、日本レコード大賞作詞賞などを受賞。1995年から阪神淡路大震災復興支援活動を始め、ライブイベント「KOBE MEETING」を毎年1月17日に開催している(2020年の25回目で終了することを発表)。2011年には、東日本大震災の被災地でコスモスの種をまく「花サカスプロジェクト」を発足。デビュー30周年を迎えた2019年、『部屋とYシャツと私~あれから~』をリリースした。

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