RB20DET-R型エンジンを搭載した「800台限定のグループA対策車」スカイラインGTS-Rが勝利へ|日産グループAジェネレーション Vol.2
日産グループAジェネレーション Vol.2 グループAでは、かつてのようにSOHC方式が4バルブDOHCに大化けするような手法は封じられていた。 RB20DET-R型エンジンや、グループA規定に準じてダッシュボードやドア内張りがそのまま残された31型のコクピットなど【写真4枚】 もっとも、こうした状況は70年代後半から80年代前半にかけてのヨーロッパでのことで、日本はまた異なる状況で展開していた。体系立った日本のツーリングカーレースは、富士、鈴鹿を中心とした全日本選手権シリーズが70年代前半に消滅すると、代わって富士GCシリーズのマイナーツーリングカーレース(TS、1300cc以下)が台頭。これが80年代前半まで続き、ツーリングカーレースの代名詞的存在となっていた。 80年代前半と言えば、日本の自動車メーカーが排ガス対策の休止期から再始動に入り、メーカーによるモータースポーツ活動が本格化してきた時期と重なる。世界的(正確にはヨーロッパとなるが)には82年に新規定が適用され、グループC規定の世界耐久選手権(WEC)と欧州ツーリングカー選手権(ETC)が始まるタイミングで、日本のモータースポーツは欧州と異なる動きをしていたことになる。 それでもグループCカーによる耐久レースは1年遅れの83年から始まるが、グループA規定によるツーリングカーレースは態勢が整わず、85年からの開始となっていた。これが全日本ツーリングカー選手権(JTC)レースで、国内主要メーカーの参戦を得ることに成功。60年代から70年代にかけ、複数のメーカーが争ったかつてのツーリングカーレースを彷彿とさせるにぎわいを見せていた。 ところで80年代中盤の日本車事情といえば、排ガス対策終了後に相次ぎ投入された高性能メカニズム車が、モデルチェンジの時期を迎え、その基本メカニズムが進化してさらに高性能化競争が激化する時期にあった。 こうしたなかで日産が、グループAレースに投入したモデルがDR30スカイラインRSターボだった。4バルブDOHCエンジンにターボチャージャを装着。世界的にも類を見ない高性能メカニズムを持ち「史上最強のスカイライン」をうたう性能自慢のモデルだった。それだけにこのクルマに対する期待は大きかったが、シリーズが始まってみるとBMW、時としてクラス下のカローラやシビックに先行される場面も往々にしてあった。 そして、31系スカイラインの時代へ。 87年、RB20DET-R型エンジンを搭載した「800台限定のグループA対策車」スカイラインGTS-Rが登場する。 撮影車両は89年の全日本ツーリングカー選手権のチャンピオンカーとなった長谷見昌弘/A.オロフソン組のリーボック・スカイライン。 R31系スカイラインで使われていたRB20DET型エンジンをベースにグループA対策を施したRB20DET-R型エンジンを搭載。日産はこのモデルによってグループA戦で有利に戦うためにはエボリューション・モデルが必要なことを痛感していた。 R32型同様、グループA規定に準じてダッシュボードやドア内張りがそのまま残された31型のコクピット。ロールバーの取り回しを見るとボディ補強材として活用する過渡段階にあることが分かる。これが次世代のR32になるとロールケージとしての役割が鮮明になる。 フォード・シエラ勢に対して不利と見られていたスカイラインGTS-Rだが6戦中の3戦を制してタイトルを獲得。 次回「日産グループAジェネレーション Vol.3」へ続く
Nosweb 編集部
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