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1947年の悲願 東京「練馬区」だけが区の発足を「独立」と呼ぶワケ

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アーバン ライフ メトロ

苦難の歴史を忘れない

 1947(昭和22)年3月15日、東京都は結局、22区制を施行します。しかし、既に東京都は練馬区の分離独立を決めていました。  3月12日には東京都長官・安井誠一郎から板橋区長に練馬支所管内の分離独立を区会に提案するよう指示が行われます。3月13日、板橋区会はこれを可決しますが、15日の新区制施行には間に合いませんでした。  この後、4月には板橋区会の選挙が行われ、定数45人中、練馬からは19人が当選。5月3日に日本国憲法が施行され、板橋区会は板橋区議会として再出発します。  この区議会で練馬区独立は改めて仕切り直しになります。  練馬では独立派が多数だったものの一枚岩というわけではありませんでした。練馬区になると、税負担が増加することを危惧する声もあったのです。そのほかの事情も挟んで、新憲法下での区議会で改めての独立決議は引き延ばされてしまうのではないかと危惧する声もありました。  そうした中で、運命の7月1日を迎えます。  前日から召集されていた区議会臨時会は、会期を1日延長していました。ここで、練馬側から選出されていた上野徳次郎区議が突如「練馬支所・石神井支所管轄区域の区新設促進に関する緊急動議」を提出します。  これに対して区議内の林信助議長は「上野議員発言許可」とします。議場は騒然とし10人の議員が議場を退場。その上で採決が行われ、出席議員42人のうち賛成28、反対4、退場10で動議は可決します。  この一連の動きは区史などでも言葉を選んで書いていますが、こういうことです。  林議長は江古田町の住人、すなわち練馬独立派です。練馬独立派の中では新制区議会で奔走し林議長を仕立てた上で、上野区議が緊急動議を出したら、林議長が「発言許可」というシナリオを事前に準備していたわけです。  こうした根回しは議会でよく使われますが、あまりに露骨すぎるとして怒った区議が退場したのです。直後には怒った区議が議長不信任案を提出しますが、「林議長の誠意ある対応で、不信任案は撤回されて事なきを得た」とあります。  こうして8月1日、ついに練馬区は人口11万の区として成立したのです。  練馬区が「独立」という言葉を使う背景には、こうした苦難の歴史があったのです。それを忘れないという気持ちが、今でも生き続けているのです。

小西マリア(フリーライター)

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