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1947年の悲願 東京「練馬区」だけが区の発足を「独立」と呼ぶワケ

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アーバン ライフ メトロ

戦時下でも続いた独立への動き

 この頃の事情は、1975(昭和50)年7月に練馬区長応接室で行われた「練馬区独立記念回顧座談会」で語られています(『練馬区史』現勢編 所収)。 「道路のほとんどは砂利道で、牛馬や馬車が通っている状態でした。区役所(板橋)に行くには、武蔵野線(いまの西武池袋線)に乗り、池袋で乗り換えて板橋の駅まで行くということでした。あまりに不便だというので練馬に支所ができました。大泉や石神井はもっと不便でした」 「武蔵野鉄道が二時間おきだったんですがね。一時間も待っていたら池袋の終電が八時というのでどうにもならないこともありました」  当時の練馬区はほとんどが農村地域だったため、役所などの公共機関やインフラはすべて当時発展していた板橋になってしまいます。  今ではネットワークインフラがあるため、23区のどこの支所でも大半の業務は行えますが、当時は事情が異なるため、支所である練馬と石神井の派出所に対する不満は耐えないものでした。  そもそも、区役所の位置をめぐる問題は板橋区成立前から紛糾していました。  東京市の案では、北豊島郡役所をそのまま使う計画でした(現在の板橋区役所駅近くのリビオタワー板橋の場所)。これに対しても練馬側からは反対が行われており、怒りはたまっていきます。  練馬の独立に向けた動きは、戦時下でも続いていました。  1943(昭和18)年に東京都制が施行されますが、このときに都議会議員に選ばれた加藤隆太郎は都議会で「練馬・石神井地区の一区独立」を提言しています。さらに加藤は、住民たちにも団結を呼びかけます。  1944年2月14日、加藤は練馬警察署に町会長や区会議員、団体代表を集めて「練馬区設置既成会」を結成、会長には元陸軍少将の中村四郎が選ばれます。  こうして始まった独立運動に、東京都は好意的でした。しかし戦局の悪化を受けて、内務省は行政区の境界変更1年間停止する通達を出します。  とはいえ、東京都は練馬派出所を練馬支所に格上げし、石神井派出所を練馬支所石神井出張所に変更するなど、将来の練馬区成立に向けた準備も行っています。戦時下でここまで運動が進んだくらい、練馬区にとっては「悲願」だったわけです。

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