電撃引退の“怪物”平山相太はなぜ“本物の怪物”になれなかったのか
オフ返上で走り込んだだけではない。午前中の全体練習に続いて午後もただ一人居残り、フィジカルコーチに頼んで特別に組んでもらった、体の切れをもっと出すためのサーキット練習に時間を割いた。 「自分の体の大きさを考えたら、通常の練習だけでは全身を使った運動がなかなかできなかったので」 成長の妨げになっていたマイペースぶりを返上し、貪欲に復活を目指した平山は5月の連休明けから1トップに定着。FC東京をナビスコカップ制覇だけでなく、J1でも5位に押し上げる原動力になった。献身的なプレーに、城福監督も思わず目を細めている。 「24時間のなかにおける、ファーストプライオリティーがサッカーになった。目に見える部分以外にも、自分を変えたいという意識がはっきりと伝わってくる」 覚醒しつつあった大器は、当時の日本代表を率いていた岡田武史監督の目にも留まる。若手だけの編成で臨んだ2010年1月のイエメン代表とのアジアカップ予選。初代表入りした平山は、いきなりハットトリックを達成する離れ業を演じる。 しかし、好事魔多し。2010シーズンは城福監督の更迭に揺れ、最終的にJ2へ降格したFC東京で7ゴールと気を吐いた平山だったが、1年でのJ1復帰を誓って残留した矢先に悪夢に見舞われる。 東日本大震災でリーグ戦が中断されていた、2011年4月に行われた練習試合で右足のすねを骨折。そのままシーズンを終えると、チームがJ1に復帰した翌2012年5月にも同じ個所を負傷。ピッチへ帰還したのは12月1日のベガルタとのJ1最終節、それも後半36分だった。 「試合勘も鈍るし、点を取る感覚も忘れかけていた。試合へ向けた準備や緊張感を持続させるのはもちろんのこと、90分間をフルに戦える体力もない。練習だけではコンディションが上がり切らないし、体も何となく締まっていなかった」 ほとんどを治療とリハビリに当てた2年間を、平山はこう振り返ったことがある。それでも、2012シーズンのオフに届いた、J2クラブからの期限付き移籍のオファーを受諾していたら、コンディションを取り戻すという意味でも、その後のサッカー人生は変わっていたかもしれない。 「いざFC東京を離れると考えたときに、このチームでプレーする自分しか想像できなかった」 熟慮を重ねた過程で、FC東京への愛着を再確認した平山は残留を決意。あえてイバラの道を歩むも2014年9月に右足首の内側を骨折して戦線離脱。患部に埋めた髄内釘を除去した影響で出遅れた2015シーズンも、公式戦出場はJ1での2試合だけにとどまった。 そして、心機一転、完全移籍とともに再起を目指した新天地ベガルタでも、けがの連鎖を断ち切れなかった。復活への手応えをつかめなかったのか。ウェブサイトに寄せた自身のコメントを、「度重なるケガのため」と綴り始めた心情は察してあまりある。 高校時代に放った圧倒的な存在感。大きかった期待の反動として浴びせられたバッシング。24歳のときに見せた輝き。そして、決して下を向くことなく、けがと愚直に戦い続けた姿。波瀾万丈に富んだサッカー人生に自ら終止符を打ち、平山は静かにユニフォームを脱いだ。 (文責・藤江直人/スポーツライター)