イラク難民一家、オランダ定住までの苦難とこれから
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【1月24日 AFP】彼は安全を、彼女は自由を求めた。二人はようやく、命懸けの夢をかなえた。これは、あるイラク人夫婦の最初のデートから、オランダで新居の鍵を受け取るまでの長い物語だ。 アフマドさん(32)とアリアさん(31)夫婦は2015年、数百万人の移民に連なり、地中海を渡って欧州を目指した。アフマドさんは自分の胸に、生後4か月のアダム君をくくり付けていた。 海上での死の危険、路上で受けた侮辱、そして仕打ちのように長く待たされた亡命申請の手続き。すべては子どものために「平和で安全」な暮らしを求めた過程で降りかかった出来事だ。 2015年9月のある晴れた日、マケドニア(現:北マケドニア)とギリシャの国境にある閑静な町、ゲブゲリヤ(Gevgelija)でAFPの取材班が出会った多くの家族の中に彼らはいた。シリア人、イラク人、アフガニスタン人を主とする男性、女性、子ども、高齢者、乳飲み子を連れた母親、戦闘で手足を失った人など数百人が、セルビアそして欧州連合(EU)に向かう列車にぎゅうぎゅう詰めになっていた。 あの9月、彼らと一緒に列車に乗り、バスや密航業者の車で移動し、夜には歩いて国境を越えてから、記事・写真・動画を担当するAFPジャーナリスト3人は、5年にわたってアフマドさん夫婦が新生活にたどり着くまでの一歩一歩に密着してきた。 一家はオランダ東部の町ダイフェン(Duiven)に落ち着いた。まだイラクにいる親戚の身を案じ、アフマドさんとアリアさんはファーストネームだけを明かす条件で取材に応じた。 これは、二人の物語だ。 ■かなった夢 2019年8月、一本の電話が鳴った。 アリアさんは、驚くべき知らせを受け取った。難民として認定されたのだ。アリアさんの庇護(ひご)申請を支援していた弁護士は電話口で、居住許可が下りたこと、家族も対象となることを説明した。「一度に叫び、泣き、笑いました」とアリアさん。「結婚式の日よりも幸せな出来事でした」 アフマドさんは「イラクを出たときから、私たちが夢見ていた瞬間でした」と話した。 ■「死を目の当たりにした」 アフマドさんはイラクで高級服飾店を経営していた。イラクから逃げようと決めたのは、大学教授の娘のアリアさんをバグダッドのレストラン「ミスター・チキン」に連れて行った後だった。 その日は2014年2月に婚約してから最初の二人のデートだった。 レストランで食事を取っていると、爆発が起き、店は砕け散った。アリアさんの顔には、他の客を死に至らしめたガラスの破片による傷が今も残っている。 アフマドさんは「その日、私は死を目の当たりにしました。他のテーブルに座っていたら、私たちは生きていなかったかもしれません」と語った。 二人は中流の暮らしを送り、家族も近くにいた。写真・動画共有アプリ「スナップチャット(Snapchat)」で日差しの強いバグダッドの様子を見ながら、アフマドさんは「私は自分の国が大好きです」と言う。でも「イラクでは朝出勤するとき、生きて戻れるかどうか分かりません」。 2015年にアダム君が誕生し、夫婦は他のすべてを投げ打つ覚悟ができた。息子はもっと良い場所で生きる権利がある。 アフマドさんは避難資金をつくるため、店舗と相続した資産を売り払った。 アフマドさんは以前も難民だった。宗派間抗争が最も激しかった2006年に家族でシリアに逃げ、その6年後に今度はシリア内戦でイラクに戻ってきた。「しかし年々、イラクの状況は悪化し続けました。汚職と武装勢力がはびこっていました」 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、2014年のイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」の台頭と無数の武装勢力が、新たな避難の波を引き起こした。 UNHCRのデータでは2015年、8万8757人がイラクから地中海を越え、ギリシャとイタリアに避難した。 2019年の時点で、欧州連合(EU)域内のイラク難民は約21万4000人となっている。アフマドさんは「私たちは移住するしかありませんでした。選択の余地はなかったのです」と語る。 ■「わが家」 現在、一家はドイツ国境に近いオランダのダイフェンで暮らしている。茶色いれんが屋根の家には、ベッドルームが二つと緑豊かな裏庭がある。 入り口には、「わが家」と書かれた玄関マットを選んだ。 練乳を加えた甘いコーヒーを飲みながら、アフマドさんは「やり遂げました」とほほ笑む。大きなリビングの窓からの日差しはきらきらとしている。 難民認定を受けたことで、一家には毎月1400ユーロ(約18万円)の給付金が支給される。そこから家賃や社会保障費、保険、電気代、電話代、インターネット使用料などを払う。 ■「半分イラク人、半分オランダ人」 週に2回、夫婦は近くの学校で語学の授業を受けている。教科書はオランダ語とアラビア語で書かれているため、学習ペースが上がる。 アフマドさんは基本的なオランダ語を話せるが、アリアさんはなんとか話せる程度なので、長い話をするときは英語に切り替える。 環境に一番適応しているのは、アダム君だ。巻き毛で茶色い目をしたアダム君は、オランダ語とアラビア語、英語を流ちょうに話す。自分は「半分イラク人で、半分オランダ人」のように感じているという。 5歳になったアダム君は毎朝、自転車で通学。通っているのは、モンテッソーリ(Montessori)教育の学校だ。天気がいい日には、友達と近くの公園でサッカーをする。ダイフェンは、子どもが一人で外出できるほど治安がいい。 ■親戚からの冷遇 夫婦は、避難の過程で感じた恐怖と消耗を決して忘れない。失敗に終わりイラクに戻らなければならないことを、常に恐れていた。 持ち出した9000ユーロ(約110万円)のほとんどは、わずか一週間でなくなった。大半は地中海やセルビア・ハンガリー国境、オーストリアの国境を越える際、密航業者へ支払った。 最も恐ろしかったのはEU圏内に入るときだった。その秋、ハンガリーはセルビア国境に鉄条網を建て、移民の流入を食い止めようとした。 満月の光の下で、クルド系イラク人の密航業者が警察の目をかいくぐって、夫婦らを野原に誘導した。静かに後に続いたとき、一行の真ん中にいた女性と子どもらが、潜んでいた何者かに襲われそうになった。同行していたAFP記者は、警官の制服のような格好をした複数の男らを見た。何人かの移民が木の枝を振り回すと、強盗未遂の男たちは暗闇の中へと戻っていった。 ブダペストでは売春宿にさえ部屋の提供を断られ、幼い息子と共に路地で夜を過ごしたこともあった。 オランダに到着してからも、一家の安堵(あんど)は長くは続かなかった。 そこからの4年間は非情で複雑な行政手続きに振り回され、移民シェルターを転々とした。かつて女性用刑務所だった施設に収容されていたこともあった。 オランダにいた親戚からは、期待したような歓迎を受けなかった。運命に見捨てられたように感じた。 庇護申請をしている間は、就労や家を借りることはおろか、将来の計画を立てることもできなかった。何よりもショックだったのは、申請が2回却下されたことだった。 アフマドさんは2012年にシリアからイラクに戻っていたため、故郷は安全ではないという彼の主張と明らかに矛盾していると判断された。そこでシリアもイラクも安全ではないと主張し、異議申し立てを行ったが駄目だった。 約1年間、一家は滞在許可書を持たない移民として、知人のアパートを転々として暮らした。アフマドさんは「身分証の提示が求められることは何もできませんでした」と振り返る。「銀行に行けず、アリアが病気になったときに病院に連れて行くこともできませんでした。あらゆる知り合いが私のことを、まるで彼らより価値が低いかのように見下していました」 日々の苦しみはアリアさんに特に重くのしかかり、ストレスによる脱毛も起きた。アリアさんは「プレッシャーに押しつぶされそうになったときがありました」と語った。 オランダ入国管理局(IND)によると、2015年の庇護申請は5万8880件。その半数近くをシリア人が占めていた。 「庇護を得るまで長く待たされましたが、私はこの国に何の悪感情も抱いていません」とアフマドさん。「ここは、私たちが故郷に選んだ国です」 ■「私は自由」 今日のアリアさんは、脱出の途中で戸惑い、心配ばかりしていた頃のアリアさんとは違う。希望と恐怖のはざまにいた頃から変わった。 ベネズエラからの亡命希望者や、ポーランド人女性の友達ができたことでエネルギーが湧き、うつ状態からも抜け出した。友人らとともに、アリアさんはオランダを新たな視点で見つめ始めた。外出を楽しんだのは、数年ぶりだった。 中東の保守的な慣習を良しとしていなかったアリアさんは、女性の権利が尊重される環境をうれしく思っている。「ここでは、すべてから解放されています」。アリアさんの髪は英国のポップスター、デュア・リパ(Dua Lipa)のアルバム『フューチャー・ノスタルジア(Future Nostalgia)』のジャケットのようなツートンカラーだ。 ■「すべては可能」 イラクの親戚を恋しく思い、目に涙を浮かべながらも、アリアさんは「もう後悔していない」と語った。 アリアさんは、イラク出身であることをいつも誇りに思っている。アダム君にはさまざまな話をしたり、家でアラビア語を使ったり、アプリ「フェイスタイム(FaceTime)」で普段から祖母と会話させたりして、その誇りを伝えている。「息子はここで育ちます。けれど自分がどこから来たのかを知る必要があります」 アリアさんはメーキャップアーティストか、ヘアカラースペシャリストを目指して訓練を受ける予定だ。アフマドさんは運転免許試験を受けるための勉強をしており、将来は物流業界で起業することを夢見ている。 4年間滞在すると、オランダ国籍を取得する資格が生じる。アフマドさんは「われわれを受け入れた国で権利と責任を行使するために」、免許が取れたら申請するつもりだという。 「先の道のりは長いですが、最悪の事態は乗り越えました」とアフマドさん。「今は、すべてが可能です」 アリアさんは2人目を妊娠中だ。おなかの中の子どもも、いつか両親と同じように欧州市民になる。 映像は2015年と2020年9月に取材したもの。(c)AFPBB News