儲けは「食堂車の3倍」!? それでも鉄道の「車内販売」が廃れたワケ 駅弁がちょっと高い理由もここに?
客単価を上げて何とか維持
1961(昭和36)年、国鉄は供食サービスの根本を見直し、駅弁業者が原則的に車内販売も手掛けるようになります。これを受け、全国で「車内販売業者」が設立されました。 しかし、最も需要が大きい東海道本線でも、営業列車40本で弁当8000個の売り上げ見込みを立てても販売数は5400個前後に留まるなど、経営は芳しくありませんでした。国鉄は食堂車(ビュフェ)と車内販売業者も同一とし、同じ列車を同じ業者に運営させることで、収益性の改善を図ります。 それでも1968(昭和43)年には、10万円を売り上げるのに、食堂車は6人のところ車内販売は3人で済むとして、食堂車の採算性も問題視されるようになります。また、洋食が普及して若年層を中心に和食駅弁離れも起こり、売り上げが減少。各地の駅弁は郷土色を取り入れていき、これは現在の駅弁文化につながります。 さらに高度成長期となり、車内販売要員の確保が難しくなります。食堂車は人手不足と採算性の悪さで営業列車を減らし、駅弁も1970(昭和45)年の年間8475万個販売が、1992(平成4)年に4922万個販売と減少しますが、客単価の向上で維持されていました。 そうした中、車内販売は食堂車の3分の1の要員で同等以上の売り上げを得られ、食材の破棄も少ないとして、食堂車の代わりとなっていきます。なお、小田急ロマンスカーの「走る喫茶室」のように、一部私鉄ではシートサービスも行われました。 1975(昭和50)年における新幹線食堂車と車内販売は、東京~博多間「ひかり」の6時間30分営業で、ビュフェ含む食堂車が44万2000円、車内販売が74万2000円でした。これが寝台特急「さくら」になると、2日間 計10時間営業で食堂車が43万円、車内販売が2万5000円と少なく、新幹線の黒字で寝台特急の不採算をカバーしていました。 こうした状況から、在来線の食堂車は廃止の一途をたどり、2024年現在は観光列車やクルーズトレインの目玉設備として残るのみです。 とはいえ車内販売もJR各社では2000(平成12)年度をピークとして、2010年代後半には半分以下の売り上げとなり、撤退が相次ぎました。駅ナカなどでパッケージされた食品が調達できる時代であり、観光列車以外での車内販売が難しくなっていることがうかがえます。
安藤昌季(乗りものライター)