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作品の周縁にある「編集物」にフォーカスする。谷口暁彦評 「working/editing 制作と編集」

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美術手帖

作品を、ほったらかすこと  本展では、ステートメントとして以下のようなテキストが掲げられていた。 ・今日の美術の、プロジェクトベースの作品とマーケットを意識した単体で完結するプロダクトの二極化している。そのどちらでもない、物質として存在する作品ひとつからその後に続く無数のバリエーションの存在やその後の変化の可能性を示唆する作品のありようを考え直すことが本展覧会の目指すべきところである。その達成のために「作家が制作した作品と編集物(それは本でも雑誌でも良いし映像でも構わない)を最低1点ずつ制作し最低2点の制作物を展示する」という制度を設ける。 ・作家のある瞬間の言動、技術、その他もろもろの一時的な結晶が作品であるとして、その過程にある作品より多く存在する作品未満の日常に触れられるような何か、作品とは別の形の存在「編集物」の可能性を考えたい。  ・DVDボックスには特典の監督インタビューやメイキング映像がつきものだから。  このステートメントの問題設定は、かなり明確にエリー・デューリングの「プロトタイプ(*1)」を参照している。「プロトタイプ」とは、「ポイエーシス(制作)」と「プラクシス(実践)」という2項の、どちらでもない第3項として芸術作品をとらえることを提案した概念だ。制作プロセスの結果として完成を迎える、有限なオブジェクトでもなく、終わらないプロセスや行為自体を作品とするのでもなく、持続するプロセスや、生成されるバリエーションの一時的な現実化や切断を「プロトタイプ」と呼んでいる。つまり、制作されたオブジェクト=作品を、同時にプロセスやプロジェクトとしてみることもできるという、ハイブリッドな状態のことを指す。  しかし、本展は「working/editing 制作と編集」というタイトルでも示されているように、オブジェクトとしての作品単体を、重なり合ったハイブリッドなものとして扱うのではなく、「作品」と、作品以外の「編集物」のふたつの要素に分けたうえで併置するという構成になっていた。それぞれの参加作家の「作品」と「編集物」がどのようなものであったかを簡単に振り返っておきたい。  楊博(Yang Bo)は、ビリー・アイリッシュや、ボブ・ディランなどのポップミュージックへの参照や、彼の日常への眼差しから描かれた絵画作品を展示している。そこでは「編集物」として、歌詞やライナーノーツが書かれるCDジャケットに似せた、小さな冊子が置かれ、そこには日記のような自身の個人的な物語が記述されていた。  BIENは、背後に設置された蛍光灯が時折明滅する、巨大なペインティング《Drifting light》(2019)など数点を作品として展示。そして、自身が撮り溜めていた映像をインスタグラムのストーリーのように見せる「Fixed camera(WHAT IS IN MY APARTMENT WHEN I'M NOT THERE?)」(2020)を編集物とした。  田中良佑は、以前に制作していた『Fountain』というZINEと、映像による詩集作品『皮の光』をファミリーレストランを摸した座席とともに展示した。作者の田中自身は、明確に作品と編集物とを分けておらず、どちらも作品であり、どちらも編集物と見ることができる。  石毛健太は、ガラス板とホーンスピーカーを組み合わせた立体作品《蒸し暑いけどよく晴れた夏の日 / The Voice Is Hard To Hear》(2020)を作品とし、また複数の文庫本を裁断して部分的に抜き出し、再度1冊の本へと製本した『本を捌く / Handle Paperbacks』(2020)を編集物として展示していた。  本展で「編集物」と呼ばれるものは、CDジャケットの冊子や、ZINEのような薄くて簡易な冊子であり、BIENの映像作品のような「メイキング映像」のことだ。いずれも、作品の外側に位置する日常や制作のプロセスを編集したもので、本来は作品に付属するものとして想定されている形式だ。これらの展示物を見ていけば、ひとまずステートメントやタイトルで示される通り、作品に付属する「編集物」に対し作品と同等の価値を認めたり、あるいは「作品」と「編集物」を、特典付き「DVDボックス」のようにセットにすることで、その可能性を考えるということが意図されている展示なのだと理解できるだろう。  しかしじつは、展覧会場にはもうひとつ別の要素として、会場に入ってすぐの床面に「イメージソース置き場」が設けられた。ここには、それぞれの作家が影響を受けたり、作品制作の際に参照したであろう様々な書籍がイメージソースとして置かれ、これらは「編集物」とは異なり、作家の手がまったく加わっていない、市販された書籍そのままであった。  タイトルやステートメントでは、「作品」と「編集物」というふたつの要素が強調されていたが、会場では「イメージソース」というさらに別の要素が加わり、正確には3つの要素で構成されたことになる。そして、この3つの要素の関係は、おそらくそのままデューリングの「プロトタイプ」のモデルと暗に重ねられてもいるだろう。つまりオブジェクト(作品) 、プロセス(イメージソース)とその中間に位置するプロトタイプ(編集物)という関係だ。この展覧会のキュレーションを主に担当していた石毛の編集物『本を捌く / Handle Paperbacks』が、イメージソースである書籍を切り貼りして制作されていたことは、とくにこの関係を意識していたようにも思える。  こうした観点から見ていくと、「作品」「編集物」「イメージソース」という3つの要素は、「プロトタイプ」である「編集物」を、ある程度図式的に説明するための布置になっている。それはステートメントにもあったように、「作品とは別の形の存在『編集物』の可能性を考え」ることを明示するための設定でもある。そして、本展において、主題が「編集物」であるならば、本来展覧会の中心であるはずの「作品」は、「イメージソース」と同等に「編集物」の周辺へと追いやられてしまうだろう。ゆえに、本展のなかでの「作品」は、たとえ展示空間の大半を占めていても、そこに存在している理由が積極的には肯定されず、どこか空虚な存在になっている。作品が(いい意味で)ほったらかされていたのだ。そしてこのほったらかしは、それを見る私たちへの問いとして反射してくるだろう。私たちはきっと、いつも作品を中心に考えすぎていた。この展覧会は、「編集物」の可能性を検討すると同時に、ラディカルな方法で「作品」をほったらかしにして、「作品」とは何かをも問い直す試みでもあったように思える。​ ​*1ーーエリー・デューリング「プロトタイプ 芸術作品の新たな身分」(武田宙也訳、『現代思想』2015年1月号)

文=谷口暁彦

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