なぜ「大した結果も出していない人」が出世するのか…日本の人事制度が「完成形」にたどり着けない哲学的理由
■報酬をもらえる人はあらかじめ決まっている ということで、ここから先は、この予定説が、主にプロテスタントを中心にして見られる教義だという前提で読み進んでください。 さて、あらためて考えてみたいのは、これほどまでに、言ってみれば「御利益」のなさそうな教義が、進化論的に言えば「淘汰」されずに受け入れられ、やがて資本主義や民主主義の礎となっていったのはなぜなのか、という問題です。 予定説によれば、信仰を篤く持とうが善行を多く重ねようが、その人が神によって救済されるかどうかには「関係ない」ということになります。この考え方は、私たちが一般に考える「動機」の認識と大きな矛盾を起こしますよね。 「報酬」と「努力」の関係で言えば、「報酬」が約束されるから「努力」するための動機が生まれる、というのが通例の考え方でしょう。ところが、予定説では「努力」は関係なく、あらかじめ「報酬」をもらう人ともらえない人は決まっている、と考えます。 この因果関係を仏教と比較してみると予定説の異常さが際立ちます。仏教では因果律を重視します。全宇宙は因果律によって支配されており、釈迦の大悟はこの「因果律」の認識によっている。釈迦は全宇宙を支配する因果律を「ダルマ=法」と名付けました。当然のことながら、釈迦以前から「ダルマ=法」は存在していた、つまり教祖とは別に絶対的に法は存在したわけで、だから「法前仏後」となるわけです。 予定説はこれをひっくり返します。神が全てを予定、つまり「予め、定め」ているわけで、ここに因果律は適用されません。だから、プロテスタンティズムは「神前法後」になるわけです。私たち日本人にとって「因果応報」という考え方はしっくりきますが、これは仏教の影響が色濃いのであって、プロテスタンティズムでは必ずしもそうは考えない、ということです。 ■「予定説」の下でも人は頑張った さて「努力に関係なく、救済される人はあらかじめ決まっている」というルールの下では、人は頑張れないし無気力になってしまうように思うのですが、どうなのでしょうか。 いや「まったく逆だ」と主張しているのがマックス・ヴェーバーです。あの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の著者です。マックス・ヴェーバーは、まさに『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、カルヴァン派の予定説が資本主義を発達させた、という論理を展開しています。 救済にあずかれるかどうか全く不明であり、現世での善行も意味を持たないとすると、人々は虚無的な思想に陥るほかないように思われるでしょう。現世でどう生きようとも救済される者はあらかじめ決まっているというのなら、快楽にふけるというドラスティックな対応をする人もいるはずです。 しかし、人々は実際にはどうだったかというと、そういう人ももちろんいたのでしょうが、多くの人はそうはならなかった。 むしろ「全能の神に救われるようにあらかじめ定められた人間であれば、禁欲的に天命(ドイツ語で“Beruf”ですが、この単語には“職業”という意味もある)を務めて成功する人間だろう、と考え、『自分こそ救済されるべき選ばれた人間なんだ』という証しを得るために、禁欲的に職業に励もうとした」というのがヴェーバーの論理です。