なぜ「大した結果も出していない人」が出世するのか…日本の人事制度が「完成形」にたどり着けない哲学的理由
■善行を積んだかどうかは関係ないという「予定説」 このマルティン・ルターのロケンロールなシャウトを受けつぎ、これを洗練させるようにしてプロテスタンティズムに強固な思想体系を与えたのがジャン・カルヴァンでした。この思想体系が、やがて資本主義・民主主義の礎となり、世界史的な影響力を発揮していくことになります。 では、そのポイントは何か。カルヴァンの思想体系を理解するための、最大の鍵が「予定説」です。予定説とは、次のような考え方です。 ある人が神の救済にあずかれるかどうかは、あらかじめ決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことは、まったく関係がない。 実に、信者ではない人からすると驚くべき思想です。当時、悪名高かった贖罪符によって救われることはない、というのならわかります。事実、ルターの最初の問題提起はその点を問うていました。しかしカルヴァンの思想はそうではない。贖罪符によって救われないのは当然のこととしながら、そもそも「善行を働いた」とか「悪行を重ねた」とかいうこと自体が、どうでもいいことだ、とカルヴァンは主張したわけです。 ■聖書にも「予定説」は登場する これはカルヴァンが生み出した独自の思想なのでしょうか。いや、そうではありません。カルヴァンは、ルター以上に「聖書」というテキストに徹底的に向き合った人です。では「予定説」は聖書に書かれていることなのか。うーん、確かに聖書を読むと、カルヴァンの「予定説」として読める箇所があることがわかります。 例えば新約聖書の「ローマの信徒への手紙」第8章30節には、「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」と書かれている。聖書を読んでいくと、このような「あらかじめ定められた」という言葉がキーワードのようにあっちこっちに出てきますから、テキストを字義通りに読んでいけば、「予定説」という考え方は当然出てくることになります。 一点注意を促しておきたいのが、現在、予定説を認める教派は少数派であり、これをキリスト教の普遍的な教義だと考えるのは誤りだ、ということです。例えば最大教派であるローマ・カトリック教会ではトリエント公会議において正式に「予定説は異端」とされていますし、他にも、東方正教会には全く受け入れられておらず、メソジストは予定説を批判するアルミニウス主義を採用しています。