荒川静香のトリノ五輪の快挙から15年。「金メダルを取るには?」の答え
2006年2月23日、イタリア。トリノ五輪女子フィギュアスケートではフリーの演技が終わって、荒川静香(当時、24歳)が自己新の125.32点で首位に躍り出ていた。すでにメダルは確定。最終滑走のイリーナ・スルツカヤ(ロシア)が高得点を叩き出さなければ、金メダルが決まる状況だった。それはアジア人フィギュアスケーターとして初の快挙で、大会でひとつもメダルを取れていなかった日本代表選手団の一縷(いちる)の希望だった。 【写真】日本で「社会現象」となった荒川静香のレイバック・イナバウアー 演技を終えた荒川は、バックヤードでニコライ・モロゾフコーチなど関係者に囲まれながら、静かにモニターを見守っていた。 「ショートプログラム(3位)を終わった時点で、もしかしたらメダルに手が届くという気持ちもありました」 荒川はその瞬間をそう振り返っている。 「ただ、メダルを考えると硬くなってしまうので、"この舞台で滑っているのが幸せ"と思いながら、フリーは滑りましたね。滑りながら、"スケート人生で最高の集大成になる"とはなんとなく感じました。最後に滑ったスルツカヤの演技は見ていましたが、自分の演技に満足していたので、実はあんまり目に入らなくて」 結局、スルツカヤの演技は精彩を欠いた。ジャンプの転倒だけでなく、エッジの入りが浅く、荒川が見せた優雅さはなかった。2位のサーシャ・コーエン(アメリカ)にも及ばなかったのである。 金メダルが決まって周りがお祭り騒ぎになる中、当の荒川は口の端に笑みを浮かべながらも、取り乱すことなく祝福を受けていた。
海外メディアに「クール・ビューティー」と呼ばれたのは、その落ち着きがゆえんだろうか。本人は「別にクールに装っているわけではない。逆に"そんなにクールに見えますか?"と聞きたいですね(笑)」と語っていただけに、不本意な異名だったかもしれない。しかし心のざわめきを見せずに氷の上に立てることは、競技者として大きな利点だ。 あれから15年、フィギュアスケート界に打ち立てた金字塔の再現をーー。 荒川は、冷淡というより豪胆だったのかもしれない。 2005年12月、トリノ五輪の前に開かれた全日本選手権後、荒川はタチアナ・タラソワからモロゾフにコーチを変更している。そして2006年1月にはフリーの曲目を『幻想即興曲』から『トゥーランドット』に変え、2月に入って五輪まで10日を切った段階で、SPも『パガニーニの主題による狂詩曲』から『幻想即興曲』に変更届を出した。 「(フリーは)魅せられるプログラムに、ということを考えて滑りやすさで。(SPは)曲のつなぎを考え、最初のジャンプが飛びにくかったから変えました。フリーで使っていた曲だし、演技の構成は変えていないので、何の問題もありません」 荒川は淡々と語っていた。しかし、大会前でこれだけの変更をやってのけられるのは、人並外れた果断さだ。 懸案のSPは、曲に馴染んでいた。ノーミスの安定した演技で66.02点。3位で滑り終え、メダルの目算が立った。 フリーも6分間練習から、荒川だけが達観していた。1位で迎えたコーエンのほうが緊張で硬さが見え、案の定、冒頭のルッツ、フリップと大きく乱れてしまった。荒川は騒然とした中、入れ替わりでリンクに上がったが、泰然と気品すら漂わせていた。 「シーちゃん!頑張って!」