「高倉健さんにすごんできた」プロ野球選手から俳優へ転身、日本一有名な“悪役”になった男の軌跡
明治大学野球部からプロ転向。実は大谷翔平の先輩!
1935年、八名は岡山県岡山市で3人兄弟の末っ子として生まれる。3歳のとき、肺結核を患った生母は伝染を恐れて、籍を抜いて家を出た。父は後妻を迎えたが、「最初はお母さんとは呼ぶことができなかったな」と八名は回想する。 「俺が9歳のときに岡山大空襲があった。逃げる途中、田んぼの溝の中で気絶してしまい、なんとか炊き出しをしている小学校へたどり着いた。はぐれた母もいて、『信ちゃん、これ食べ』と自分のおにぎりを半分に割って抱きしめてくれた。それからお母さんと言えるようになったんだ」 終戦後、疎開先の平島(現・岡山市東区)で進駐軍がキャッチボールに興じる姿を見たことがきっかけで、野球に興味を覚えた。父は、岡山で千歳座という芝居小屋兼業の映画館を経営する興行師だったが、八名は野球選手に憧れを抱いていくようになる。 俳優のイメージが先行するが、八名は元プロ野球選手でもある。明治大学から東映フライヤーズにピッチャーとして入団。といっても、すんなりと入団したわけではない。 「明治大学野球部のしごきがひどくて、冗談抜きでこのままでは死ぬと思った。ある日、仲間が『八名、逃げろ』と協力してくれて、逃げ出す形で退部したんだ」 プロ野球にドラフト制度が導入されるのは1965年。八名が退部した1956年時点では、球団は直接交渉し、一本釣りで選手を獲得していた。「明治大学に八名といういいピッチャーがいたが、どうやらそいつが逃げたらしい」。たちまち噂は広まり、東映フライヤーズの球団関係者と会うことになった。逃亡から、わずか3日後のことである。「むちゃくちゃな時代だよな」、懐かしそうに目を細めて、八名が笑う。 「プロ野球といっても、東映フライヤーズの本拠地、駒沢野球場は土ぼこりが舞うような原っぱみたいなもの。俺たち選手よりお客さんが少ないときもあった。まさか、“こんなに”人気が出るようになるとはなぁ」