「少女像」展示中止が波紋 そもそも「慰安婦問題」とは?
愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、元慰安婦を象徴する少女像などの展示が中止されたことが議論を呼んでいます。展示をめぐっては、名古屋市の河村たかし市長らが中止を求めたことや、市民の抗議メール・電話が相次いだのみならず、脅迫まがいのFAXが届いたことから、「表現の自由」を中心とした問題として論じられています。 【画像】混迷する徴用工・慰安婦問題 日韓双方の主張を整理する ここでは、そもそも慰安婦問題とはどういうものなのか、経緯と論点について、いま一度振り返ってみたいと思います。「アジア女性基金」の創設に外務官僚として関わった平和外交研究所代表の美根慶樹氏に寄稿してもらいました。
底流にあった国際的な女性差別撤廃への取り組み
慰安婦問題について日韓関係や国連など多国間関係において関心が高まり、本格的に取り上げられるようになったのは1990年代に入ってからです。とりわけ大きなきっかけとなったのは1991年、旧日本軍の慰安所でつらい体験を強いられた韓国人、金学順(キム・ハクスン)氏による証言だったといわれています。 国際的には、女性に対する差別をなくし、尊厳を守ってその地位の向上を図る運動から慰安婦問題の取り組みに発展する流れがそれ以前からありました。グローバルな女性の権利運動として日韓関係に負けない重要な問題です。 女性の地位向上について大きな転機となったのは、1979年に国際連合第34回総会で採択された「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」(Convention on the Elimination of all forms of Discrimination Against Women、略して CEDAW)であり、1976~1985年の「国連女性の10年」の中で最大の成果でした。この条約は1981年に発効し、日本も1985年に批准しました。 バルカン半島では、金学順氏のカミングアウトと同じ1991年、旧ユーゴスラビア(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国)を構成した共和国が相次いで独立運動を開始しました。その中で多数の女性が性暴力の被害者となり、「紛争下における女性への暴力」について国際的関心が高まったのです。 そして、1993年の国連世界人権会議(ウィーン会議)を経て1995年に北京で開催された第4回国連世界女性会議(北京女性会議)となり、あらゆる形態の「武力紛争下における女性の人権の侵害」が非難され、その防止と被害者の救済が叫ばれました。北京女性会議で合意された男女平等を実現するための包括的な処方箋、「北京行動綱領」には12の関心分野があり、その一つが「女性と武力紛争」でした。