飛騨高山の価値創造千年物語~現代編~
飛騨の匠や高山祭の祭り屋台、誰もが惹かれる風情を残す古い街並み、そして圧倒的なブランド力をもつ木工家具生産といった独自性の高い「木の民の文化」を創り上げてきた岐阜の山奥にたたずむ飛騨高山。これまで古代~江戸時代にかけて創り上げられてきた価値創造の歴史についてご紹介しました。今回は、匠の力が木工産業として花開く現代について、必ず取り上げねばならないとある木工会社のサステナブルな経営についてご紹介したいと思います。(中畑 陽一) 飛騨高山の価値創造千年物語~現代編~
匠の技が木工家具の一大産地を創った
飛騨高山は日本の六大木工家具産地として知られています。なかでも机や椅子などの「脚物」の生産は日本一を誇ります。高山は、もともと根付いていたおもてなしの精神が山岳観光と結びつき、田舎の小都市として注目されていました。 匠と木工の文化が1960年代に戦後の国民的雑誌『暮しの手帖』に取り上げられたり、映画のモチーフになるなどし、1970年には国鉄(現JR)による「ディスカバー・ジャパン」キャンペーン、その後の外国人観光客の積極的な誘致などもあり、国際観光都市としての今の高山を創り上げていきました。その基盤にあるのは、やはりこの地に根付く匠時代からの「ものづくりの技と心」でした。 観光と木工の二人三脚で形作られて来た現代の高山。その木工産業の歴史と未来に欠かせないのが、今年創業100年を迎えた「飛騨産業」です。私の母方の祖父母もかつてここで働いており、私の通った小学校の傍で長く操業しており、私自身子供のころから長年愛用している椅子があり、切っても切れない縁を感じます。 飛騨産業は、「サステナビリティ経営」を標榜こそしていませんが、その歴史とコアコンピタンスに根差した近年の経営はまさにサステナビリティに根差しているといえます。今回は高山の木工と現代の匠の歴史を体現している飛騨産業に迫りたいと思います。
地域資源とともに歩む飛騨産業
その始まりは、「関西で曲木で椅子をつくる技術を身につけた」という森前房二と名乗る男が高山に現れた、100年前の1920年にさかのぼります。飛騨の匠たちは彼らからその技術を学び、豊富なブナ材を活かし、さらには塗装技術が未熟な時代だったため、今では伝統文化財となっている同じく匠の技術ともいえる春慶塗りを採用するなど、地域に根差す文化と自然を最大限に活用し製品化に成功します。 しかし、そこから関西や浜松の木工メーカーに勝てる品質・値段にするのには時間がかかりました。経営に行き詰まるなか、皮肉にも関東大震災という大惨事による復興需要で窮地を脱します。その後、早くからアメリカへも輸出を開始し、世界恐慌も乗り越えていった飛騨産業は、戦時中にはなんと日本初の木製の戦闘機の開発も手掛けました。高山に空襲予告のビラが巻かれた3日後広島に、さらにその3日後に長崎に核爆弾が落とされ戦争が終結、高山は辛うじて空爆を逃れましたが、戦闘機も実用化前に河原で焼かれたといいます。 戦後も海外輸出を主力として成長を続けた飛騨産業は、一時海外売上高が8割を超えるまでになりましたが、材料高騰による採算悪化から海外から国内に市場を転換していく決断をします。しかし、その後の高度経済成長で成長に取り残され、国産のブナ材も不足し、安い海外の木材を輸入していくようになり、いつしか地域資源としての森に見向きもしなくなっていき、業績も伸び悩んでいきます。