「感動ポルノ」と批判する人は誰もいなかった…今では考えられない「24時間テレビ」第1回目のすさまじい熱狂
■「24時間テレビ」司会が欽ちゃんになったワケ 萩本は、当初難色を示した。というのも、すでにラジオのほうで同様のチャリティ番組に出演していたからである。ニッポン放送の『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』。毎年12月24日、クリスマスイブの正午から翌日にかけて24時間生放送のチャリティ番組である。 目的は、視覚障害のある人のための音の出る信号機を設置すること。「通りゃんせ基金」と名づけられ、募金が番組内で呼びかけられる。萩本欽一は、1975年から始まったこの番組のメインパーソナリティーを務めていた。 またこの頃の萩本欽一は、競馬はする、女の子のお尻は追っかけ回すなど「悪いこともそうとうしてた時期」と本人が振り返るほど。お世辞にも品行方正とはいかず、だから自分は相応しくないと思っていた(『なんでそーなるの!』187頁)。 だが井原は「欽ちゃんしかいない」という思いで、あきらめず熱心に口説いた。結局萩本が折れて、初代の総合司会に就任した。井原の目論見は、結果的に大当たりだった。日本では前例のない全国ネットの大型チャリティ番組ということで放送前は不安も大きかったが、番組とともに起こった募金熱の高まりはものすごいものだった。 ■数万人が特設ステージに押し掛けた 5円や10円といった小銭を一杯に詰めたビンや箱を手に集まる人の列が途切れることなく続き、募金を受け付ける電話は鳴りっぱなし。これほど日本中が募金で一色になるとは予想もしなかった。その中心にいたのは、間違いなく萩本欽一である。 大竹しのぶとともに総合司会となった萩本が姿を見せる場所には、どこでも群衆が詰めかけた。第1回のときには、萩本たちが都内の街中に足を運んだのである。「欽ちゃ~ん」と声がかかり、募金を手に握手しようとする人びとが萩本たちを取り囲んだ。そして大詰めのグランドフィナーレは、代々木公園につくられた特設ステージで。 ステージ上には、おなじみの黄色いTシャツを着た萩本欽一と大竹しのぶがいる。会場は2人をひと目見ようと集まった数万人の観衆でぎっしり。「絶対押さないでくださいね」「後ろのひと、押し合わないで」と呼びかけるスタッフの声も聞こえる。2人が「ありがとう!」と手を振ると、観衆も歓声を上げ、手を振って応える。 この24時間のあいだに印象に残ったことを聞かれ、この放送の翌日に目の手術をする女の子が、もし目が見えるようになったら最初に欽ちゃんの顔が見たいと言ったという話を披露。萩本が呼びかけ、会場の人びとから女の子への激励の拍手が送られる。ほかにもさまざまなエピソードが語られ、聖火ランナーとしてタモリが登場する演出もあった。