志村けんさん“幻の主演作”山田洋次監督に聞く
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山田洋次監督にとって89作目となる新作『キネマの神様』。そのモチーフとなったのが、山田監督が大切にしている『名画座・ギンレイホール』です。40年ほど前から脚本を書く合間に訪れていたといいます。いまは少なくなってきたフィルム上映も行われています。 『キネマの神様』は、映画を愛する人たちに巻き起こる奇跡を描いた物語です。映画製作に明け暮れる主人公の青春時代を菅田将暉さんが演じ、借金を抱え、名画座を心の拠り所とする晩年を沢田研二さんが演じます。当初、主演予定だったのは、新型コロナウイルスによる肺炎で、この世を去った志村けんさん。その日から、ちょうど1年経ったこの日、山田監督は志村さんに思いを馳せました。徳永キャスターが、名画座・ギンレイホールで、山田監督に話を聞きました。 1954年、松竹に入社した山田監督。一躍有名になったきっかけが映画『男はつらいよ』です。破天荒で自由奔放な寅さんが、騒動を巻き起こす人気作。1983年には一人の俳優が演じた最も長い映画シリーズとして、ギネスブックに認定されました。1977年公開の『幸福の黄色いハンカチ』は、その年の日本の映画賞を総なめにし、『たそがれ清兵衛』は、アメリカ・アカデミー賞にもノミネートされました。山田監督は、時代に合わせた人情や家族の姿を繊細に描いてきました。しゃべったり、笑ったりしながら、誰もが楽しめる映画。山田監督はこの作品で、ある場面を描きたかったといいます。 山田:「通路に座ったり、お互いにワイワイしゃべったり、笑ったり。映画館というのは、そういう、ところでありたいし、僕はそんな映画を作りたいと、いつも思っていた。僕自身が青春期を過ごした日本の映画が、戦後、一番元気だった時代。画期に溢れていた時代の撮影所を再現してみたいなという気持ちが前々からあって。僕自身、僕の仲間も皆そうだったけど、とても真剣だった。楽しい映画を作るために、一生懸命だった人たちの物語を作りたいという気持ちが前々からあった」 山田監督自身が青春時代を過ごしてきた1960年代の松竹大船撮影所。助監督役の菅田さんの衣装は帽子を被り、ジャケットを羽織った姿。駆け出しだったころの山田監督の姿と重なります。 徳永:「ゴウちゃん(菅田さん)の姿は、山田監督の若かりしころなのではないかなと思ったが、その辺りはどうか」 山田:「(自分自身)投影している部分もある。どうしてもあの年代は観念的になる。面白い発想もするけど、同時にひどく観念的になって、人間の捉え方が薄っぺらでもある。僕自身が、あの年代の時に書いたシナリオとか、あるいは、あの時代に僕が作ろうとした映画のことを、もう一回シナリオを読んだりして、思い返してみたりすると、“ああ若かったな。若気の至りだったな”ということがよくある。そういう青年を菅田くんに演じてもらいたかった」 山田監督について、菅田さんに聞きました。 菅田:「いっぱい、まず、話してくれた。監督の中で、この映画を作るにあたった経緯とか、色々な作品のオマージュが入ってるとか、直前まで、ずっと話してくれる。寅さんを初めて撮ったときはこうでとか、初めて映画館に行くときは、こんな気持ちでとか。もう辞めようと思ったけど、奥さんが、こう言ってくれたからとか。それで『菅田さん、お願いします』と言われると、その時の気持ちのまま入っていくというか。それを僕は、素直に体現できればなという感じだった」 晩年のパートで、主演を務める予定だったのが、志村さんでした。志村さんの映画にかける思いが伝わる、ある映像があります。2020年2月、出演者やスタッフが集まり、脚本を読み合わせたときの映像です。このとき、山田監督の目の前に座っていたのが紫色のパーカーを着た志村さんでした。演技指導に熱心に耳を傾ける姿や、談笑する姿もありました。 徳永:「本読みのシーンの姿、映像を見せてもらったけど、志村さんが、ちょっと緊張しているようにも見えて。とても貴重なものを見ているなという感じがした」 山田:「とても緊張していたと思う。とても真面目な人だった。志村けんという人は、舞台やテレビでは大活躍しているけど、映画で主人公を演じたことはない。元々、映画にあまり興味がなかった人じゃないかな。でも一度、僕は、彼を映画の主人公にしたくて。これはいい機会だと思ってオファーして、彼が『やりましょう』と言ってくれたときには、一度もやったことのない映画の主役をやるんだということを彼だって相当な覚悟があっただろうし、僕も、どうなるのかという半分の怖さと半分の楽しみがあった」 徳永:「『男はつらいよ』で渥美清さんという偉大な方と、監督は二人三脚でやっていて、そのあと志村さんの存在は気になっていたのか」 山田:「もちろん。渥美清という人が、典型的な喜劇俳優であると同じ意味において、志村けんのような喜劇俳優は、もう他にいない。だんだん“喜劇人”と言われる人たちが少なくなってきている。面白いことを言える俳優は色々いるし、コントやギャグを演じる俳優はいるけど、理屈を超えておかしい。人をおかしがらせることが何よりもうれしくてしょうがない。そういう俳優は、いま、本当に少なくなってきた」 誰もが笑える映画を。志村さんにその思いを託したといいます。 山田:「いよいよクランクインが迫ってきたころに、コロナで亡くなったというのは、突然だった。具合が悪い、入院したという話は聞いていたけど、まさか亡くなるなんて想像もしてなかっただけに、びっくりした。あれから、ちょうど1年経った。もう、この映画ダメなのかなと、しばらく思っていた」 菅田:「志村さんが入院されたと、みんなで“アイーン”ってポーズを写真で撮って病院にいる志村さんに送ったりとかした。スタッフ・キャスト陣、みんな何とかして撮りきることが、多分、使命だよね。みたいな話をした」 志村さんの後を継いだのは、志村さんと番組で共演し、親交の深かった沢田研二さんでした。2020年6月、山田監督は撮影を再開させました。 徳永:「感染するかもしれないという可能性もあるなかで、撮影を再開したりとか、撮影を貫き通すというのは、本当に大変なことだったと思うけど、そういう怖さはなかったのか」 山田:「撮影ができなくなるという怖さが、常に目の前にあったのは事実。撮影の現場から感染者が出る。現場がクラスターになる。それはとても怖かった。そうならないように、必死にソーシャルディスタンスを取ったり、手を洗ったり、うがいをしたりした」 山田監督は脚本にある場面を追加しました。台詞の中に、この言葉を加えました。 ゴウ:「勇太、ここ座れよ」 勇太:「そこは空けておかないと駄目なんです」 ゴウ:「ソーシャルディスタンス」 勇太:「いいから静かに」 コロナで苦しむ映画館の描写は、感染対策や資金繰りに悩むギンレイホールを参考にしました。 徳永:「コロナを描かなければいけないという思いはあったのか」 山田「撮影中にコロナになっちゃって、これはコロナに触れない訳にはいかないなと。現代の映画界を描く場合にはね。それで撮影しながら脚本を書き直して」 それから1年以上経った今年2月、ついに映画は完成しました。 山田:「いま終わって、もう1度、志村けんさんのことを思い出しているけど、彼に、この映画を見せたい。『あなたの親友の沢田研二くんが、こんなキャラクターを作り上げてくれたよ』と言いたい」 そして、いま、映画を通して、伝えたい思いとは。 徳永:「コロナに疲れて、コロナで苦しい思いをしている人たちが、たくさんいて、そういう時代に監督は、どんな風にみんなを勇気付けたいのか。どんな風に思っているのか」 山田:「例えば、映画の作り手として、いま何を考えなければいけないのかとか、これから先、どんな映画を作ることを考えるとかあるけど、それを置いておいて、もう一つ大きく考えれば、21世紀は、不幸に向かいつつあるような気がしてしょうがない。『キネマの神様』の舞台になっている1960年代は、そんなこと考えたこともなかった。もっと元気だった日本人は。若者はもっと元気だった。もっと前向きだったと思う。あれから50年近く経って、お先真っ暗って感じでいる。どうしてこうなったのだろう。一体、僕たちにとって、“幸せな暮らし”というのは、どういうことなのかを考え直すというか」 徳永:「何よりも監督の作品に全て教わっているような気がする」 山田:「そのために映画を作ってますということなのかな。小説家はそのために小説を書くし、絵描きは絵を描くし、音楽家は歌を歌う、ピアノを弾くということなのだろう。きっと。“ああ楽しかったなよ”という映画を作りたいと思うし、“ああ楽しかったな”“よく笑ったな”と思ってくれれば、僕の役割は、多少、果たせているのではないかと思う。“ああ楽しかったな”“よかったな”ということの内容は、一口では言えないよね」
テレビ朝日