女性を平気で「下の名前」で呼べる人に思うこと
小学校の入学式の日から40年間、ずっと世の中との隔たりと向き合ってきた「隔たリスト・ふかわりょう」が、芸歴26年目にして初めてすべてをさらけ出したエッセイ集『世の中と足並みがそろわない』を出した。どこにもなじめない、何にも染まれないふかわ氏の不器用すぎるいびつな日常についてつづられている同書から今回は、三軒茶屋を「三茶」、二子玉川を「二子玉」などと略せないエピソードを紹介する。ふかわ氏によると、「略せない人」は、女性を下の名前で呼べなかったり、自らを「常連」と言えなかったりする人と共通点があるようだ。
■自分の庭のように「三茶」と発する人を見ると 私には、略す資格がない。 例えば三軒茶屋、二子玉川、略したことがありません。こうして表記することさえ抵抗があるのですが、「三茶」「二子玉」と呼ぶにふさわしい基準を私は満たしていないのではないか。そんな葛藤があり、スッと言えないのです。無理して言おうとすると、孫悟空の頭のように喉がキューッと締め付けられ、何かの拍子に略してしまったら、罪悪感に苛まれ、穢れた身体を洗うように、「三軒茶屋」を連呼するでしょう。
長年住んでいたり、普段から度々足を運んでいたりすれば堂々と略せるのですが、あまり接点のない分際で「三茶」と呼ぶ自分に嫌悪感を抱いてしまいます。 教官に付き添われて「三茶」と発する仮免期間を経てから、もしくは、「もう、三茶って呼んでいいのだよ」と、夢の中で略称の神様から許可が下りる。そんな第三者のゴーサインが必要で、できるなら自己判断は避けたいもの。 だから、大して関わりもないのに、自分の庭のように「三茶」と発している人を見ると、憧れを通り越し、なんてデリカシーのない奴だ、きっと人の家に上がって勝手に冷蔵庫を開けるタイプだろう、と秘かに軽蔑の眼差しを向けています。
私には、略す資格がない。 地名だけではありません。アスリートやバンド名も、「え? もう略してんの? !」と驚くことがあります。愛称としてマスコミが早々に略すのに乗っかって、まるで以前から知っていたかのように略す人に対しても、一定の距離を保ちたくなる。なぜ知ったばかりのものを略せるのか。ある程度フルネームで呼ぶ期間を経て、そろそろかなと徐々に略していくのが道理ってものじゃないのか。略すには、しかるべき時間と経験が必要なのです。