Yahoo!ニュース

IDでもっと便利に新規取得

ログイン

20世紀の最後、そして最強のユーティリティー、10年目の大ブレーク/プロ野球20世紀・不屈の物語【1991~2000年】

配信

  • この記事についてツイート
  • この記事についてシェア
週刊ベースボールONLINE

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

捕手から日本ハムで外野、広島で二塁に

 21世紀に入り、2006年シーズン途中に移籍した巨人で見せた万能ぶりは、20世紀には生まれていなかった若いファンにとっても記憶に新しいのではないか。当時の巨人は原辰徳監督の第2期が始まったばかり。つなぎの野球を目指していた原監督にとっては、不可欠なプレーヤーだったに違いない。木村拓也だ。  現役ラストイヤーとなった09年には、9月4日のヤクルト戦(東京ドーム)で捕手の加藤健が頭部死球で離脱、これで捕手を使い果たしたことになった巨人だったが、首脳陣に指名される前に自ら進んでブルペンに走り、10年ぶりにマスクをかぶった“リリーフ捕手”の姿は、決して派手ではないものの、インパクトは絶大だった。記録にも記憶にも残る名選手でも、これができる選手は少ないだろう。不動のレギュラーという時期は決して長くなかったが、「どこでも守れる控えの1番手もプロ野球では立派なポジション」と語っていた木村ならではの離れ業だった。  そのキャリアをスタートさせたのは、まだ本拠地を東京ドームに置いていた日本ハムだ。ドラフト外で1991年に入団したときの“本職”が捕手だった。2年目に手薄だった外野へ転向。守備固めで一軍に初出場、シーズン終盤の10月には打席にも立って3安打を放った。その後は徐々に出場機会を増やしていったが、94年オフに投手の長冨浩志とのトレードで広島へ移籍することになる。  新天地は日本ハムとは対照的に外野の層が厚く、控えには“鉄人”以前の金本知憲もいた。内野も盤石だったが、ベテランの域に差し掛かっていたのが正二塁手の正田耕三。その後釜となるべく二塁の練習を始め、オフには正田と同じスイッチヒッターにも挑戦した。移籍1年目は7試合の出場のみに終わったが、そこから30試合、77試合、86試合、90試合と、やはり徐々に出場を伸ばしていく。  守備位置も当初は外野が多かったが、二塁を守ることも増えていき、99年に44試合で二塁を守って、初めて二塁が最多となる。この99年には4試合でマスクもかぶっているが、“本職”ながら、これがプロ初マスクでもあった。この時点でバッテリー以外のポジションすべてを経験。「どこでも守れる控えの1番手」という“ポジション”は確立された。  ただ、迎えたプロ10年目、20世紀の最後を飾る“ミレニアム”の2000年になると、その風向きが変わり始める。

【関連記事】